失われた莫大な財宝!?世界の大秘宝4選!

宝はどこに隠された?

それは、滅亡寸前の帝国が隠した巨万の富

殺し奪われた究極のダイヤモンド

一つで数億の価値を持つ黄金の卵

禁じられた山の何処かにある夢の金鉱山

この世のどこかに眠る、伝説の財宝

見つけ出すのは、一体誰か?

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、失われた莫大な財宝!
世界の大秘宝4選
をご紹介します。

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モクテスマ2世の財宝

アステカ帝国、滅亡直前。

侵略者の目を逃れた、隠されし宝。

アステカ帝国の第9代君主、
モクテスマ2世の財宝

混乱の最中に持ち出されたまま、
その在処はなお暴かれていない。

アステカをはじめとするメソアメリカ文明に
ヨーロッパ諸国が接近した時代。

1519年、キリスト教の布教という大義のもと
新大陸に上陸したスペイン人一行は、

先々の原住民らと同盟を結びつつ
大帝国アステカの首都テノチティトランを目指しました。

彼らスペイン人の名を、”侵略者” コンキスタドール

エルナン・コルテスの指揮のもと
領土拡大と富を求め、貪欲に突き進む道中、
アステカ帝国君主モクテスマ2世の財宝の噂を聞きつけるのです。

押し寄せる白人の侵略者たち。

アステカの民は歓喜しました。

「予言に伝わる、白い顔をした男。

一の葦の年にきっと戻ってくると約束した
我らが太陽神、ケツァルコアトルが帰ってきた。」

一の葦の年とは、ちょうど1519年、
奇しくも予言と一致していました。

アステカの民はスペイン人を丁重にもてなし、
モクテスマ2世の宮殿へと案内しました。

滞在中、コルテスの手下は
宮殿内に秘密の部屋を発見します。

そこには目も眩むほどの黄金や宝石、
大量の財宝が隠されていました。

貪欲なコルテスらは
モクテスマ2世を軟禁し、財宝を強奪。

アステカ征服も目前に迫ったその時、大事件が発生します。

1520年4月、キューバの統治者が
コルテスを牽制すべく、軍隊を派遣し、
コルテスはテノチティトランを一時撤退。

留守の間の統率を任されたのは、
ペドロ・デ・アルバラードという男でした。

彼は神殿に集まり祭礼に興じるアステカ人を見て
反乱を企てているのではと疑念を抱き、

その恐怖から、最高位の神官や貴族、
民衆らを大量虐殺したのです。

翌月、コルテスが更なる兵士を引き連れ戻った時には
アステカは一変、殺気立つ民衆に囲まれてしまいます。

コルテスに頼まれ
場を鎮めようと民衆の前に立ったモクテスマ2世は、
大量の石と槍を投げられ死亡。

逃亡を図るコルテスは、財宝を積めるだけ積んで
深夜、アステカを後にします。

ところが、財宝のあまりの重さに
多くの者は溺れ死に、
また多くはアステカ人に追いつかれて
150人のスペイン人、45頭の馬、
同盟を組んだ2000人以上の先住民が
一夜にして死亡しました。

悲しき夜」、ラ・ノーチェ・トリステ

略奪した財宝は大半がアステカに取り戻されました。

翌年、生き延びたコルテスは大量の軍を率いて
再びアステカに赴き、テノチティトランを陥落させるも、
莫大な財宝は既に行方不明。

一説に、アステカの人々が
少なくとも2000人以上を使い運び出したとも言われています。

その後もあらゆる探検家たちが探し回りますが、
およそ500年たった今もなお、発見に至っていません。

グレート・ムガル・ダイヤモンド

インド史上最大のダイヤモンド、
グレート・ムガル・ダイヤモンド

その原石は、787 カラット (157.4 g)。

大きさと美しさにおいて、比類するものはない」と
讃えられた宝石です。

その石を最後に手にしたアフシャール朝初代君主・
ナーディル・シャーが暗殺された1747年以降、
行方不明となっています。

「ムガル」とは「モンゴル人の」を意味し、

その名は1526年、モンゴル帝国の末裔とされる
ティムール朝君主バーブルが、
デリー周辺を拠点に建国したムガル帝国に由来します。

グレート・ムガル・ダイヤモンドの発見と
その後の足取りについては諸説あり、

歴史上の記録に登場するのは
ムガル帝国が最盛期を迎えた時代。

南インドの都市国家ゴルコンダの宰相
エミール・ジェムラから、

“インドの至宝”タージマハルを建設した
第5代皇帝シャー・ジャハーンへ、
外交の品として贈呈されたものとされています。

ジェムラは周辺の鉱山から
ダイヤモンドを横領して私腹を肥やし、

そのうちの一つにグレート・ムガルがあったと考えらています。

皇帝はダイヤモンド内部の傷を取り除こうと
ヴェネツィアの宝石職人にカットを依頼しますが、
あまりのプレッシャーに作業は失敗。

研磨し過ぎたために重さが大幅に減少し、
皇帝を激怒させたと言われます。

グレート・ムガル・ダイヤモンドはその後、
息子の第6代皇帝アウラングゼーブ(1618-1707)に受け継がれました。

アウラングゼーブは、1665年頃、
フランスの宝石商人ジャン・バティスト・タベルニエに
グレート・ムガルを見せたといい、
タベルニエはこのように記しています。

「そのダイヤモンドは、ローズカットで
片面が非常に大きく、
卵を半分にしたような形であった。

エッジにはわずかな亀裂と小さな傷があったが、
輝きは良好。
280カラット(319と1/2ラティス)もあった」

アウラングゼーブはムガル帝国領土を最大にまで拡大し、
現在のインドのほぼ全域を支配しますが、
彼の死後、帝国は急速に衰退。

1739年、インドを侵略したペルシャ王
ナーディル・シャーによって、巨万の富とともに
グレート・ムガルが奪われたと考えられていますが、
8年後のシャー暗殺ののち、行方不明となりました。

一説には、グレート・ムガルは研磨し直され
106カラットのダイヤモンド、コーイヌールとして
ビクトリア女王に献上されたとする説や、

ロシア・クレムリンの武器庫に保管されている
淡い青みを帯びた195カラットのオルロフであるとする説、

あるいは、小さくカットされて
方々に売られたなど様々に噂されています。

もしも発見されたら、その価値は計り知れません。

インペリアル・イースターエッグ

ロシア皇帝が作らせた、50個のイースターエッグ。

インペリアル・イースターエッグ”と呼ばれるそれらは
一つ一つが数億円の価値があり、
しかし現在所在が確認されているのは、43個。

消えた7個は一体どこに?

1885年、ロマノフ朝第13代ロシア皇帝
アレクサンドル3世は、
金細工師カール・ファベルジェに、皇后マリアに贈る
黄金のイースターエッグを作らせました。

イースターエッグとは、
キリストの復活と春の到来を祝う特別なオーナメントで、
子孫繁栄や復活の象徴である鶏の卵を装飾したもの。

最初のめんどりの卵」を意味するイースターエッグには、
色味の異なる様々な金や、仕掛け、精巧な模様が施され、
皇后をたいへん喜ばせました。

ファベルジェは「皇室御用達金細工師」に任命され、
以降毎年イースターエッグを製作し、

皇帝の死後は息子が風習を受け継いで
母マリアや妻にエッグを贈り続けました。

1917年にロシア革命が起き、
ロマノフ朝が滅亡するまでの間に作られた
計50個のインペリアル・イースターエッグは、

レーニン率いる新政府が宮殿の財宝を根こそぎ持ち去り、
モスクワのクレムリン武器宮殿へと移送したといわれています。

厳重に保管されていたエッグでしたが、レーニンの死後、
その後を継いで指導者となったスターリンが
外貨を獲得するため競売にかけました。

結局、世界中のコレクターたちが競り落とし、
本来の価値よりもずっと安い値段で国外へと持ち出され、

世界中に散らばった結果、
50個あったうちの7個は失われたままとなっています。

2014年にアメリカで1つ見つかったりと、
なおも再発見の可能性のある財宝。

貴重なエッグはその価値を知られないままに
誰かの家の押し入れに眠っているかも知れません。

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ロストダッチマン金鉱

それは、ゴールドラッシュの夢。

100年以上の探索も、なお辿り着けない金鉱山。

アメリカ・アリゾナ州、
スーパースティション山地のどこかにあると言われる
ロストダッチマン金鉱

アメリカ先住民族のアパッチ族に古く伝わる災いの山。

「スーパースティション山地は
地底世界に通じている。

そこには金を守る邪悪な地底人が住みつき、
近づくものに害をなす。

あの山には決して近づいてはならない –––」

そんな伝承を知ってか知らずか、
1839年、ジェイコブ・ワルツという名のドイツ人が
移民としてアメリカに渡りました。

およそ10年後の1848年、
カルフォルニア州で金が発見されて以降、

一攫千金を狙う人々が金の採掘に明け暮れた
ゴールドラッシュ(1848年-1855年)の時代が到来。

ワルツも金鉱で働きながらアメリカ国籍を取得すると、
スーパースティション山地で
金鉱探しの仕事を請け負うようになりました。(1860年代)

さて、伝説によれば、
1870年代に入ってから、金塊の袋を持ち帰ったワルツが
潤沢な金鉱を見つけたといって自慢したといいます。

手に入れた大量の金を売って
広大な土地と財産を手に入れた・・・
と。

その金鉱の場所を生涯明かさないまま、
ワルツは1891年に亡くなります。

彼の死後まもなくして、ジュリア・トーマスという女性が
金鉱探しの一行を率いてスーパースティション山地へと向かいました。

彼女はワルツの晩年の看護をしていた人物。

死の間際に、金鉱の場所を明かしたのかと期待が高まるも、
結局金鉱は見つからず、その後ジュリアは店を開いて
情報が不確かな、怪しげな鉱山の地図を販売するのみでした。

ワルツの死後4年ほどたった1895年には、
ダッチマンの消えた金鉱の噂話は尾鰭がついて広がります。

ワルツの言い遺したという、謎の言葉の数々。

「金鉱にたどり着くためには、牛小屋の前を通る必要がある」

「金鉱の入り口には夕陽が差し込む」

「金鉱堀りには私の金鉱を見つけることはできない」・・・

これらの手がかりを元に、夢の金鉱を探し求める人々。

命を落とす者も続出し、
次第に金鉱が呪われているという噂も立ち始めます。

1931年に行方不明となり
約6ヶ月後に遺体となって発見されたある男の頭蓋骨には、
二発の銃弾の跡が残っていたとも言われます。(アドルフ・ルース)

聖なる土地を守ろうとした原住民が
金鉱を探す者を襲い、入り口を隠したか。

金鉱の入り口は、大地震などによって
既に塞がれているために見つからないのか。

アリゾナの地にて、多くのトレジャーハンターたちが
夢の金鉱を今なお探し続けています。

この世のどこかに隠された
莫大な財宝は、このほかにも・・・

世界に眠る未発見の大秘宝!伝説の財宝7選については
こちらの記事でご紹介していますので、
気になる方はぜひご覧ください。

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