世界に眠る未発見の大秘宝!伝説の財宝7選
伝説に伝わる、世界の財宝。
太古の偉人や海賊、国家が隠したといわれる、莫大な金、銀、財宝は、今も世界中のどこかにひっそりと眠っています。
こんにちは。えむちゃんです。
今回は、世界に眠る大秘宝、伝説に伝わる未発見の財宝7選をご紹介します。
<死海文書「銅の巻物」の財宝>
1947年、死海の北西にある洞窟で偶然見つかった、”死海文書“。
今から約2000年前、紀元前2世紀〜紀元後1世紀にかけて制作されたものでした。
旧約聖書の解説や天文学、魔術、詩や黙示文書など、様々なことが記されたこの死海文書は20世紀最大の発見の一つといわれ、初めての発見以降、9年の間だけでも、約11の洞窟で次々と見つかり、近年でも2021年に新たな文書の断片が発見されています。
これらの中に一つだけ、奇妙なものが含まれていました。
銅板の死海文書。
他の文書が羊皮紙などに書かれているのに対し、これだけが明らかに異質な文書でした。
『銅の巻物』と名付けられたその文書を解読した結果、驚くべきことがわかります。
なんと、そこには数十箇所に及ぶ、莫大な財宝の隠し場所が記されていたのです。
財宝を探し求めて多くの人々が謎に挑戦しましたが、これまで誰一人として、古代の財宝の発見には至っていません。
<テンプル騎士団の財宝>
中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会、“テンプル騎士団”。
「聖地エルサレムへの巡礼に向かうヨーロッパの人々を守る」という目的のもと、1119年に創設されました。
テンプル騎士団は通常の騎士団とは異なり、同時に修道士でもある点で異質でした。
しかし騎士としての実力も欠くことなく、聖地エルサレムの防衛において華々しい戦果をあげていたため、ヨーロッパ全域で絶大な人気があり、また各国の王族や有力な貴族からの支持も得ていました。
何より特筆すべきは、莫大な土地や財産の寄進を受け、さらに現在の銀行としての役割まで担い、巨万の富を築いていたという点です。
その資金力は凄まじく、全盛期には、欧州〜中東の各地に土地を持ち、キプロス島は全島所有していたほどでした。
そんなテンプル騎士団にまつわる伝説は数多く、エルサレム神殿の跡地から聖杯や聖櫃、イエスが磔にされた
十字架を発見したとも言われています。
そのうちの一つに、こんなものがあります。
テンプル騎士団の財産を狙うフランス王フィリップ4世が、策略によってテンプル騎士団を壊滅に追い込んだ時。
事前に情報を掴んだ騎士団は、莫大な宝を運び出し、その後、姿を消した・・・。
彼らが隠したとされる財宝は、未だ見つかっていません。
伝説の真偽は不明ですが、もし本当であれば、巨万の富が隠されているに違いありません。
<ナチスの黄金列車>
第二次世界大戦の終わり。
ナチスによって強奪された財宝を積んだまま、地下トンネルに埋められたとされる、“ナチスの黄金列車”。
ポーランドの地で語り継がれる伝承によると、列車には300トンもの財宝が積み込まれ、ポーランド南西の都市・ヴァウブジフ近郊に眠っているとされています。
2015年、二人のトレジャーハンターが、黄金列車の場所を突き止めたと発表しました。
彼らは、かつて実際に黄金列車の埋設作業に携わったという人物から、遺言として、埋めた場所を聞き出したと言います。
その場所を地中探知レーダーで探索したところ、旧市街地近郊の封鎖された地下トンネルの中に全長約100mの列車らしきものを発見し、このニュースは一躍世界を駆け巡りました。
その後ポーランド政府を巻き込んだ大規模な調査が行われますが、結果的に、列車と思われていたものは自然の氷層であることが判明し、残念ながら財宝の発見には至りませんでした。
現在でも多くのトレジャーハンターたちが、地下に隠された黄金列車を探し求め、この地を調査しています。
<キャプテン・キッドの財宝>
スコットランド生まれの海賊、ウィリアム・キッド。
通称“キャプテン・キッド”。
キッドの幼少期についての記録は残されていませんが、早くにカリブ海へと渡り、海賊として活動していたと言われています。
やがてニューヨークへと渡ると、裕福な未亡人と結婚し、その後は商人となりました。
1695年、キッドは再び海へ出るべく、私掠免許を取得しにロンドンへ向かいます。
私掠免許とは、船を捕獲、襲撃するための資格のことで、当時は国家の認可があれば、敵国の商船を攻撃し略奪することが合法的に許されていました。
無事、資格を得たキッドは、私掠船の船長として活動し始めました。
しかし、当初は合法的に海賊船を相手取っていたものの、徐々に交易国の商船を狙いだし、やがて違法な海賊行為を繰り返すようになります。
その凶悪さから、キッドはヨーロッパ中で恐れられ、最終的にはボストンへ寄港した際に捕らえられてしまいます。
そして1701年、海賊行為と殺人の罪で有罪判決を受け、同年、処刑されたのでした。
処刑の直前、キッドは「莫大な宝をある島に置いてきた」と訴えました。
「捕まる直前に身の危険を感じ、航海の途中で奪った財宝をどこかに隠したのだ」と。
しかし、キッドの主張は、命が惜しくて言いだした戯れ言だろうと相手にされず、結局そのありかが聞き出されることはありませんでした。
ところが、その後、ニューヨーク・ロングアイランド沖にあるガーディナーズ島から、キッドの隠した財宝の一部が発見され、かの主張の信憑性が急激に高まると、人々はこぞって、まだ見ぬ財宝を探すようになりました。
彼が強奪した財宝の多くは、現在でも見つかっておらず、その行方は謎に包まれたままです。
キャプテンキッドの伝説は、ロバート・スティーブンソンの『宝島』や、エドガー・アラン・ポーの『黄金虫』など、様々な物語のモデルとなり、現代でも広く知られる最も有名な海賊伝説の一つです。
<豊臣秀吉の埋蔵金>
伝説の財宝は、日本にも数多く眠っているとされています。
全国統一を成し遂げた天下人、豊臣秀吉。
彼は主要な銀山・金山を手中に収め、公家や大名に大量の金や銀を配ったり、黄金の茶室を作ったりと、圧倒的な経済力を誇っていました。
そんな秀吉は生前、豊臣家の将来を案じ、大阪城内にあった実に4億5千万両を多田銀銅山に埋蔵したと言われています。
両という当時の単価の価値は、時期や物価により変動するため、円への正確な換算はできませんが、おおよそ、一両は数万から数十万円ほどの価値に値します。
となると、埋蔵金がどれほどのものになるのか、その額の大きさは言わずもがなでしょう。
多田銀銅山とは、兵庫県川辺郡猪名川町にある、銀・銅を主とする大鉱山です。
16世紀後半〜18世紀前半に最盛期を迎え、江戸時代には、新たに見つかった銀の鉱脈が幕府の財政を支えました。
その豊富な銀や銅の産出量を讃え、豊臣秀吉が自らの所在を示す馬印(うまじるし)という印を掲げることを許した坑道「瓢箪間歩(ひょうたんまぶ)」や、
大阪城の財政を潤した坑道「台所間歩(だいどころまぶ)」などがあることから、多田銀銅山は実際に秀吉ゆかりの地と言えるでしょう。
また、多田銀銅山の埋蔵金を示す文献は、少なくとも巻物が4つ、絵図が8つ見つかっています。
伝説の真偽は不明ではあるものの、期待せずにはいられません。
<徳川埋蔵金>
時代は、江戸時代末期。
江戸幕府が大政奉還に際して、幕府再興を画策し、密かに埋蔵したと噂されるのが、有名な”徳川埋蔵金“です。
1868年、江戸城が無血開城されると、財政難に苦しんでいた明治新政府は、旧幕府の持っていた財産を求めて、城内の金蔵へと踏み込みました。
ところが、金蔵の中には何もなく、既にもぬけの殻だったのです。
新政府は、旧幕府が財産を隠したとして、大規模な捜索を開始しました。
当初、埋蔵金の眠る有力な候補地として、群馬県の赤城山が囁かれました。
「幕末期に財務の最高責任者であった小栗忠順(おぐりただまさ)が、群馬県の赤城山に運んだ」という噂が上がったのです。
ところが、他の地域でも、「牛に木箱を背負わせて歩く武士の集団を見た」などといった様々な目撃情報が残っていることから、「赤城山の噂は囮で、実際は他の場所に隠されたのではないか?」という説も浮上。
明治以降も、候補として挙げられる地域では大規模な探索が何度も行われますが、結局現在に至るまで、徳川埋蔵金の発見には至っていません。
<山下財宝>
太平洋戦争末期。
大将山下奉文(ともゆき)率いる第十四方面軍によって、フィリピンに埋められたとされる、山下財宝。
そこにはアジア各国から略奪された、莫大な金銀財宝が眠るといいます。
その存在を明確に示す歴史的資料は発見されていませんが、現地の人々の間では、「日本人が財宝を埋め、木や石に暗号を残していった」などといった証言が言い伝えられています。
一説によると、山下財宝の正体は「丸福金貨」であるとされています。
丸福金貨とは、『福』の字が刻印された特製の金貨のことで、フィリピンでの物資調達のために、日本からフィリピンに空輸されたものでした。
現地に届いた2万5千枚の丸福金貨は、第十四方面軍の司令部が置かれた首都マニラに保管されていました。
しかし、アメリカ軍の進軍により撤退を余儀なくされ、司令部は約1万5千枚の金貨を持ってバギオへ移動。
さらにそこから北部の山の中へと移送されたと考えられていますが、輸送に関わった人物が全滅していることから、実態は不明となっています。
残りの約1万枚の金貨は、各地の部隊に配布され、その後、終戦と共に行方は分からなくなりました。
戦後、マルコス元大統領夫人イメルダ・マルコスが不正蓄財の嫌疑をかけられた際には、「夫は山下財宝を発掘して財を成した」と主張するなど、現在に至るまで財宝に関する噂が後を絶ちません。
時がたちなお人々を魅了する、伝説の財宝。
いつか再び日の下に現れるその日まで、今も世界のどこかに眠り続けているのでしょう。
現代に残る伝説や神話のように、古くから伝わる物語というのも、時として史実に基づきます。
中世ヨーロッパに伝わる不気味な御伽噺、「ハーメルンの笛吹き男」もその一つ。
1284年、ハーメルンの街に現れた、奇妙な格好をした男が笛を吹き鳴らすと、街中の子供たちがたちまち男の後をついていき、そのままどこかへと消えてしまった・・・
街や建物、記録文書に残る、130人の児童失踪事件。
童話に描かれた事件の真相とは一体・・・
そのお話は、こちらの記事でご紹介していますので、気になる方はぜひチェックしてみてくださいね!
→ 『【前編】ハーメルンの笛吹き男伝説は実話だった!?恐ろしすぎる闇の物語の真相』