叡智の極み!人類最強の智将5選!

時代の先導を切る、名高き智将

一国に平和と発展をもたらすため。

亡き者との誓いを果たすため。

格別なるその才覚、
誰が為に生かすか。

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、最高峰の叡智を誇った5人の智将をご紹介します。

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ハンニバル・バルカ / カルタゴの将軍 (紀元前247年-紀元前183年)

その男、ローマの恐れた最大の敵。

巧みな戦術で
イタリア半島の大部分を侵略した
カルタゴの将軍、ハンニバル・バルカ

時は、紀元前。
アフリカ大陸の北岸に栄えた国家カルタゴ

長きにわたる戦争に敗れ、
地中海周辺の海域と
シチリアの領土を奪われたカルタゴは
敵国、共和政ローマに恨みを募らせた。

そんな最中に、
ハンニバルは生まれました。

幼少の頃、
ハンニバルは軍隊率いる父に
戦地への同行を願い出ます。

すると父は息子を神殿に連れて行き、
敵国、共和制ローマの打倒を誓わせました。

後に父は戦死し、ハンニバルを引き取った
義理の兄も暗殺され、
二人の遺志を背負うハンニバルは
わずか26歳にして、義兄の軍司令官の座を継いだのです。

紀元前219年、カルタゴは再び
ローマとの戦争に踏み出しました。

第二次ポエニ戦争 / 紀元前219年-紀元前201年

先の戦争で制海権を奪われ、
船もないカルタゴは
警戒十分で備えるイタリア本土に
直接攻撃するほか、手段はありませんでした。

この無謀な戦いに、将軍ハンニバルは
前代未聞の作戦に打って出ます。

<アルプス山脈越え>

警戒の手薄な北側、
意表をついたアルプス山脈からの侵攻は
ローマを激震させました。

ハンニバルは
約6万の兵士と37頭の象を引き連れ
真冬の雪山に望みます。

極寒と険しい山道、敵軍との戦闘を経て、
山を越えた時にはすでに
兵士は2万6千人、象はたったの3頭。

それでも、動揺するローマ軍を
次々と打ち倒し、北イタリアの制圧を成し遂げるのです。

さらに一行は
ローマ周辺の部族を次々と味方に迎え、
倍に膨れた5万の兵で、南へ侵攻しました。

<カンナエの戦い>

到達した南東の村、
カンナエで待ち構えていたのは、
約8万人もローマ軍。

ここでハンニバルは
その天才的な手腕を遺憾無く発揮します。

味方兵の特性と敵兵の心理を読み切った
完璧な布陣によって、
ローマ軍を完全包囲すると、
反撃の余地も与えず圧勝。

ローマ軍は大半が死傷し、対して
カルタゴ軍の損害は約6千人にとどまりました。

これこそ、のちに
史上最も完成度が高いと評される、
包囲殲滅戦術

こうしてハンニバルは
後世の戦術家たちの模範となったのです。

ナポレオン・ボナパルト / フランス皇帝 (1769年-1821年) 

その男、世界に名を馳せる大革命家。

大陸軍率いて皇帝にまで上り詰めた、
ナポレオン・ボナパルト

1769年、地中海に浮かぶ
フランス領の島、コルシカ島に生まれた
ナポレオンは、読書好きの賢い子供でした。

10歳で陸軍幼年学校に国費入学し
15歳でパリの陸軍士官学校に入ると、
通常4年の課程を
わずか11ヶ月で終えるという
開校以来の成績を記録します。

<トゥーロン攻囲戦>

卒業後は砲兵士官になり、
昇進を続ける最中、フランス革命が勃発。

やがて港湾都市トゥーロンでの戦いで
砲兵指揮官に任命されたナポレオンは、
初の功績を挙げることとなります。

砲兵としての知見を活かし、
港を見下ろす二つの高台を占領したのち、
大砲で敵の艦隊を見事撃破。

24歳の若い英雄の名は
瞬く間に知れ渡りました。

その後、ナポレオンは
フランス革命の混乱を収めつつ、
数々の重大な戦場で勝利を重ね
ヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置きます。

またその中で、法律、政治、軍事における
新たな常識をヨーロッパ中に伝播し、
近代制度の礎を築き上げました。

<イエナの戦い>

智将ナポレオンの魅せた
天才的な戦術は数多く、

例えば1806年、
プロイセン軍と戦った
イエナの戦いにおいては、

敵の情報と地形を自ら視察しに出向き、
最適な高台から早々に砲撃を浴びせ、

混乱する敵陣に
さらなる追い討ちをかけるように
中央から騎兵団を突進させて
一気に壊滅状態へと追い込みました。

逃げ惑うプロイセン軍を残らず追撃し、
最終的には、プロイセン全土の制圧に成功したのです。

指揮官としての抜群の能力だけでなく、
それまでの陸軍の組織構造を見直し、
兵の機動性を爆発的に上げ、
それに付随する補給網などの組織化を行ったこと。

革命家ナポレオンの最強たる所以なのです。

モルトケ / プロイセンの参謀総長 (1800年-1891年)

その男、偉大なる沈黙者。

徹底的な軍事指導により、
ドイツ統一に貢献した
プロイセンの参謀総長、
ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ

彼は鉄道や電信などの新技術を使いこなし
従来の指揮体系を刷新した
近代ドイツ陸軍の父”と呼ばれる人物です。

モルトケは陸軍幼年学校に通い、
1818年、18歳でデンマーク軍に入隊。

その4年後、プロイセン軍へと移籍します。

オスマン帝国での
軍事顧問などを経験した後、
58歳で参謀総長となり、
そこから軍政改革を行うようになります。

モルトケは各指揮官に
進軍の際の基本的な考えを徹底的に指導。

その上で指揮官の自主性と独断を尊重・奨励しました。

これにより、命令待ちの部隊は激減し
臨機応変な進軍が可能となり、
他国より抜きん出た効率性を実現

加えて砲撃部隊の強化
電信での通知による動員の効率化まで
徹底して改革を行います。

鉄道や電信が発展した当時、
活用次第ではこれまでより広く軍を
分散させることができる
と考えたモルトケは、研究を重ね、

「分散進撃し、包囲して一斉攻撃する」

という画期的な戦略を考案するのです。

常識を覆すその戦術は
プロイセン軍に次々と勝利をもたらしました。

<セダンの戦い(普仏戦争)>

1870年、セダンの戦い
フランスがプロイセンに宣戦布告すると、
モルトケは鉄道網を利用し、
49万人にも及ぶ兵士を国境に集中させました。

フランス側も
25万人の兵士を投入するものの、
プロイセン軍の技術を駆使した
素早い動員に為す術もなく、徐々に退却。

最後はセダンの街で
フランス軍を完全包囲し、
モルトケ率いるプロイセン軍が
終始主導権を握る形で大勝利を収めました。

諸葛孔明 / 三国時代の軍師 (181-234年)

その男、三国の世の眠れる龍。

天下三分の計を説いた
琅邪郡の天才軍師、諸葛孔明

207年のある日、
動乱の世を憂いひそかに暮らす
臥龍・孔明の噂を聞きつけ、
漢の皇族の血を引く没落の家の子、劉備(りゅうび)が訪れてきました。

漢の復興を狙う劉備は、
当時まだ無名だった27歳の孔明に
教えを乞うべく熱心に呼びかけ、
三度目の訪問でようやく対面を果たします。

孔明は彼の軍師となり、
強大な敵・曹操(そうそう)と
直接対決することは避けるべき、
孫権(そうけん)とは手を組むべしとし、
中国を三分して三人で支配するよう進言しました。(天下三分の計

翌年の赤壁の戦いでは、
劉備は助言の通り、孫権と同盟を結び、
曹操との決戦に挑みます。

その際、孫権の軍師・周瑜(しゅうゆ)は
孔明を陥れようと

「10万本の矢を集めてくるように」

という無理難題を突きつけますが、
孔明は「3日もあれば問題ない」と返答。

夜の深い霧に乗じて
藁人形を積んだ船を出し、
敵軍から矢を撃たせることで
楽々と10万本の矢を回収した
というのは有名な逸話です。

赤壁の戦いは見事、
劉備・孫権が曹操に大勝利を収め、
その後も冴え渡る知略によって
漢の国の再建に大きく貢献したのでした。

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黒田官兵衛 / 戦国時代~江戸時代の軍師 (1546年-1604年)

その男、稀代の軍師。

三英傑のもと信義を果たした
天下統一の影役者、黒田官兵衛

1546年、官兵衛は播磨国の姫路に生まれました。

頭脳明晰、歌詠みを好む心優しい少年は、
一方では武芸に励み、兵学を学んで
戦乱の世を生きる力を培いました。

時流を読む能力、鋭い観察眼に
徹底的な情報収集。

やがてその才能は、三人の天下人のもと
大いに発揮されることとなるのです。

当時、播磨国は
織田と毛利の二大勢力の間にあり、
どちらに味方につくかという
命運の分かれ道に
大名たちは頭を悩ませていました。

そんな中、官兵衛は
いち早く信長に才能を見出し
織田につくよう進言してまわり、
その後は信長のもと、秀吉の軍師として
活躍するようになります。

官兵衛の優れた戦術は
相手を巧みに欺きました。

時には農民たちにのぼりを持たせて
大勢の援軍と見せかけ、
その実たった500の兵で
5000もの毛利軍を撤退させ、

また時には船を沈めて
川の流れをせきとめ、
敵陣の城を水で囲い攻めた

とも伝わります。

1582年、本能寺の変で信長が討たれると
官兵衛はそれを悟られるより早く
毛利との停戦に漕ぎ着け、

さらには毛利との和解と
明智光秀の討伐を進言し、
豊臣秀吉を次なる天下人へとのし上げました。

そして、秀吉の天下統一に向けた
最後の戦で、官兵衛は刀を持たずに
敵陣小田原城に入り、
誠意ある呼びかけのみで開城を成功させるのです。

官兵衛を智将たらしめるもの。

それはこの世の平和を実現するという
揺るぎない願いでした。

秀吉の死後、官兵衛は徳川につき、
家康が江戸幕府を開いて
戦国の世は幕を閉じたのでした。

命運を分つ、優れし智将の存在。

いつの時代にも人々を動かす天才たちが
国や時代までをも変えてきたのですね。

さて、群衆の先頭に立ち導くのはもちろん
男ばかりの所業に限りません。

人類最強の五人の女戦士については、
こちらでご紹介していますので、
気になる方はぜひチェックしてみてくださいね!

→ 『一騎当千の覇者!人類最強の女戦士5選!

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