太古の絶対禁域!世界の三大迷宮

世界各地の古い記録に残された、
巨大な迷宮の存在。

遺跡に残る痕跡。
一体なんのために作られたのか?

興味本位で近づいては決してならない。

禁域に入れば最後。

深く深く迷い込んで、二度と出てはこられない。

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、古の絶対禁域!世界の三大迷宮をご紹介します。

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クノッソスの迷宮

世界三大迷宮、一つ目は
世界最古と言われる迷宮。

ギリシャ・クレタ島に残る、
青銅器時代最大の遺跡、クノッソス

紀元前二千年頃、
この土地には巨大な宮殿が建てられました。

一辺160m以上、部屋数は1200を超え、
階数は4〜5階建て。

中央広場を囲うように集まる重要施設、
内部の絢爛豪華な装飾、複雑な構造。

しかし、甚大な自然災害により
崩壊と再構築を繰り返し、
三度目にして宮殿はついに廃墟となりました。

それでも跡地に見る痕跡は
巨大な富と権力を、一目にして知らしめます。

迷宮を意味する“ラビリンス(Labyrinth)”という言葉。

これはクノッソスの遺跡に残る
両刃の斧(labrys/ラブリュス)の紋章が
由来になっているとも言われています。

そんな古の迷宮は、ギリシャ神話においては
このように描かれています。

かつてクレタ島で権威を振るった
ミノスという男は、
最高神ゼウスと人間の王女エウロペの息子。

母エウロペはのちにクレタ島の王と結婚し、
その後継を巡る戦いに勝利したミノスは王位を継承しました。

自分が本当に王となったのか、
試しにミノスは天に祈ってみました。

−−−神に捧げる生贄の牡牛を、
どうか海より現したまえ。

すると、王の願いを聞き入れた
海の神ポセイドンが
白い牡牛を海から授けてきました。

王の資格を確認できたミノスは
祈った通りに牡牛を贄に捧げようとしましたが

白い牡牛のあまりの美しさに、
手放すことが惜しくなりました。

そこで、その牡牛は我が物にして、
地上にいた別の牡牛を神に捧げてしまうのです。

怒ったポセイドンは、
ミノス王の妻パシパエを操り、
白い牡牛を愛してしまうように仕向けます。

これで困るのはパシパエです。

どうにかあの美しい牡牛に近づきたいと、
職人のダイダロスに作らせた
雌牛の模型の中に入って想いを実らせました。

そうして生まれたのが、
牛頭の怪物、ミノタウロスです。

成長するにつれ、ミノタウロスは凶暴化し、
やがては手に負えなくなってしまいます。

困ったミノス王は、
再び職人ダイダロスに命じて
怪物を閉じ込めておくための
決して外へ出られない迷宮を作らせました。

そう、これが一説に
クノッソスの遺跡が元となっていると言われる
迷宮ラビュリントスです。

ミノス王は毎年、あるいは3年、9年ごとに、
怪物ミノタウロスへの生贄として
アテナイに住む少年少女を七人ずつ連れてきては
迷宮に送り込んでいました。

これに激怒したのは、アテナイの英雄テセウス

3度目の生贄に自ら名乗りを上げ、
怪物退治へと向かいます。

クレタ島に到着した生贄の一行。

それを見ていたミノス王の娘アリアドネ
テセウスに一目惚れし、彼の力になろうと
迷宮の制作者ダイダロスのもとを訪ねました。

そこで迷宮の脱出方法を聞き出し、
こっそりテセウスに短剣と
麻糸の赤いまりを渡して、こう耳打ちしました。

「これは魔法の糸です。
迷宮の入口にくくりつけておけば、
先を辿って、きっと帰ってこられます。

アテナイへお戻りになるその時には
どうか私もつれて行って、
私をあなたの妻にしてください」

テセウスはこれを了承し、
言われた通り、糸の端を入口の扉にくくりつけ
永遠に出られない迷宮の中へと入っていきました。

糸を垂らしながら、奥へと進み、
ついに一行はミノタウロスと遭遇します。

あまりの恐ろしさに皆腰を抜かす中、
テセウスは果敢に立ち向かい、
アリアドネにもらった短剣で
見事ミノタウロスを討伐しました。

そして帰りは赤い糸を辿り、
迷宮から無事生還したのです。

テセウスはアリアドネを連れて
クレタ島を抜け出しました。

その後の二人の運命は諸説あり、
真相はまさしく迷宮入りとなっています。

古代エジプトのラビリンス

世界三大迷宮、二つ目は
古代エジプトの失われたラビリンス

ピラミッドをも凌駕する
超巨大な地下迷宮。

約2500年前、
古代エジプトに存在したと言われる
その迷宮は、数々の著名な歴史家によって記録され、

紀元前5世紀に生きた
古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、
迷宮の構造についてこのように記しています。

エジプト人たちは、
ピラミッドをも超える迷宮を作り上げた。

屋根付きの中庭が12面あり、
そのうち6面が北向きに、6面が南向きに
一列に並んでいる。

それぞれの門は互いに向かい合っていた。

内部は二階層。

地上に1500、地下に1500、
合計3000の部屋があった。

私は自らの目で、地上の部屋の数々を見た。

しかし、地下の部屋については、
迷宮を作った王たちや

神聖なワニたちの墓があったため、
立ち入ることは許されなかった。

私が目にした上層の部屋の数々は、
まさに人間の力を超えた創造物であった。

中庭、部屋、そしてそれを繋ぐ回廊は
非常に入り組んで、
まるで果てしない迷路のようだ。

石造りの壁や天井は
数々の彫刻が施され、
中庭は白い大理石の柱に囲まれていた。

迷宮の終わりの角には、
巨大なピラミッドがそびえ、
その上には偉人たちの姿が彫られていた。

ここに通じる通路は、
地下に作られている。

ヘロドトスの記述のほかにも、
紀元前1世紀のギリシャの地理学者ストラボンや、

1世紀に活躍した
古代ローマの博物学者・大プリニウスなども
地下迷宮に関する記録を残しています。

大プリニウスによれば、
彼が生きた時代には迷宮はまだ存在しており、
当時から約3500年前の王によって建設されたといいます。

しかし、西暦100年頃を最後に、
エジプトの迷宮は歴史の記録から
ぱたりと消えてしまうのです。

1800年代、迷宮の跡地と思われる
構造物の基盤が発見され、

その後、2008年には、
追加の調査が行われました。

ベルギーとエジプトの調査チームが
地下をスキャンニングしたところ、

深さ数mの場所からいくつもの部屋が
連なっているような遺跡が発見されましたが、

不思議なことに、それ以上の調査は許されず、
決定的な発見には至っていません。

謎多き、秘められしラビリンス。

砂漠の下に広がる古代迷宮に、
一体何が隠されているのでしょう。

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カタコンブ・ド・パリ

世界三大迷宮、残る最後の一つは
華やぐ街の地下に広がる巨大な墓地、
カタコンブ・ド・パリ

「止まれ!ここは死の帝国だ」
(Arrête! C’est ici l’empire de la Mort)

納骨堂へと続く暗闇の廊下。

頭上にまたがる石碑に刻まれた警告です。

文化と芸術の街、
フランス最大の都市パリの地下には、

深さ約20m以上、全長数百kmにもなる空間が広がり、

およそ600万人の遺骨が所狭しと納められています。

カタコンブとはもともと、ローマのとある教会が
作った埋葬地を指す言葉。

イタリア語でカタコンベと呼んでいたのが、
やがて洞窟や地下の埋葬地を総じて指すようになりました。

イタリア語でカタコンベと呼んでいたのが、
やがて洞窟や地下の埋葬地を総じて指すようになりました。

しかし、カタコンブ・ド・パリは実際、
埋葬地としては使われていないのです。

一体どういうことでしょう?

この迷宮の歴史は古く、
古代ローマ時代にまで遡ります。

当時、死者の埋葬は
パリ郊外で行われていましたが、

4世紀ごろからキリスト教が広まると
次第に教会の地下や敷地に埋葬するようになりました。

そのうち10世紀ごろになると
パリは人口が密集し、とうとう墓地の場所が不足し始めます。

12世紀には、
貧しい人のために集団埋葬墓地が作られるも、

17世紀になるとそれも溢れかえり、
もはや埋葬する場所はどこにもなくなってしまうのです。

それでも、教会は資金繰りのため
埋葬を受け入れ続け、墓地周辺の環境は悪化。

疫病によってさらに死者が増えてゆきます。

18世紀には、
墓地にひしめきあう何千もの遺体が
腐敗する際発する気体が外に漏れ出て、
隣接するワイン貯蔵庫の
ろうそくの火を消してしまうという報告があり、

その数ヶ月後には、遺体の重みに耐えかね
ついに壁が突き破られて、
ワイン貯蔵庫が破壊される事態にまで発展。

この大混乱の中、政府が目をつけたのは
何世紀にもわたり採石場として利用されてきた
巨大な地下空間でした。

当時のパリに建つ石造の建造物は
地下の採石場から切り出された石で作られ、

街の発展とともに、地下空間もまた
誰も全貌を把握できないほどに
巨大化していったのです。

埋める作業も追いつかず、
落盤するからっぽの空洞。

いつ崩落してもおかしくありません。

1786年、政府は溢れかえった遺骨を集め、
巨大な旧採石場へ移動させるプロジェクトを開始します。

聖歌隊の列に続く、大量の骨を乗せた馬車。

その後およそ80年にわたり、
見つかった遺骨を順次
地下空間へと移動させていったのです。

やがて他の墓地と同様に
人の訪問を叶えるべく、
頭蓋骨と大腿骨を規則的に積み上げ、整え、
ようやく完成したカタコンブ・ド・パリは
一部の貴族たちの興味を惹きました。

1806年以降、公共の見学会が開始され、
ツアーにはかのナポレオンやドイツのビスマルクも訪れました。

1983年に電気をひくまで
ろうそくの灯りだけで見て回っていたようです。

第二次世界大戦中には
レジスタンスの隠れ家として使用されるなど、
パリの歴史と深く結びつく、カタコンブ・ド・パリ。

現在は、一部の開放されている場所を除いて
立ち入りを禁止されていますが、

その先には無数の通路や、
パリ郊外へとつながる道など、
数百kmにもなる迷宮が残されています。

地図の表記は、まだごく一部。

世界中では今もなお、多くの研究者たちが
禁じられた未知なる領域に潜っています。

もちろん、それは日本においても・・・

決して足を踏み入れてはならない、
伝承に伝わる日本の禁域。

異世界への入り口5選については
こちらの記事でご紹介していますので、
気になる方は、ぜひチェックしてみてくださいね!

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