歴史の裏に隠された不審な6つの疑惑!タイタニック号沈没事故の真相!(中編)

世に知られるタイタニック号の悲劇とは、
氷山に衝突した豪華客船が
1500人の命と共に海に沈んだという最悪の事故。

しかし、これを単なる不慮の事故として
片付けるには、
あまりに不審な点が多いのです。

浮上する、6つの疑惑。

安全性を全面に謳った
「不沈船」タイタニック号は、
華やかに初航海へと漕ぎ出したまま、
二度と戻ることはありませんでした。

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、歴史の裏に隠された
タイタニック号沈没事故の6つの疑惑
をご紹介します。

タイタニック号沈没事故の概要については、
こちらの記事で詳しくご紹介しています。

先に見ていただくことで
この動画の内容理解が深まりますので、
ぜひ先にご覧ください。

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6つの不可解な点

事前に知っていた氷山の存在

タイタニック号沈没の原因となった
17mもの氷山。

夜の暗がりにその巨体を隠し
船は避け切ることができずに衝突しました。

ところが不可解なことには、
針路上の氷山の存在は
事件当日の朝の時点で、すでに判明していたはずなのです。

危険を知らせる無線は
6度にもわたり受信された記録がありました。

警告は通信士から船長の
エドワード・ジョン・スミス氏にも伝えられ、

さらには、タイタニック号を所有する
ホワイト・スター・ライン社の社長・
イズメイ氏も船に同乗していたため、

スミス船長から情報を受け取っていました。

巨大な氷山の存在は
ほかの複数の船も把握しており、

別の貨物船からも
再三に渡る警告を受けていたにも関わらず、

広い広い大西洋、
なぜ避けることができなかったのでしょう。

船はスピードを一切緩めることなく
氷山の方向へまっしぐらに進みました。

大ベテランだった船長

タイタニック号の船長スミス氏に
疑惑の目が向くのは当然のことでしょう。

彼の不審な点はまだほかにも・・・

事故当日の夕方、スミス船長は
VIP客からディナーに招待され、
優雅な時を過ごしていました。

そして午後9時20分頃。

船が危険な氷山海域に接近する中、
「何かあれば連絡を」という言葉を残し
自室へ戻ったのです。

スミス船長はこの道40年以上の大ベテラン。

世界で最も経験豊かな船長の一人として
あらゆる船の処女航海を名指しで任されるほどに
名声の高い人物でした。

ほかの誰より海を理解しているはずの男が
危険領域を目前に、なぜ立ち去ったのでしょう?

彼はタイタニック号の航海を最後に
引退を予定していました。

当時62歳。

愛する船と共に、
暗い海に沈んだと言われています。

装備の不備

タイタニック号沈没事故の不審な点は
これだけではありません。

船の見張り台に必要不可欠な双眼鏡

事故当日のその日に限って、
所在不明となっていたのは
単なる偶然でしょうか。

1912年4月14日。

その日は星の輝く穏やかな夜でしたが、
月明かりはなく、見張り番は
靄(もや)のかかった暗い海を
肉眼で監視するしかありませんでした。

何もない真っ暗闇で、
見える程度は知れています。

巨大な氷山が見えた時には
船は目前、回避できませんでした。

事故当日のこれらの動きが、
いかに怪しいものであったか。

ここからは、一連の事故が
”事件”であった可能性を説く、
さらに深い疑惑です。

オリンピック号の謎

世界最大級の豪華客船タイタニック号には
瓜二つの姉妹船が存在しました。

沈没事故の二年前、1910年9月に完成し
翌1911年6月に初の航海に出た、オリンピック号

同様にホワイト・スター・ライン社が所有し、
事故以前はタイタニック号より勝る知名度を誇りました。

しかし、その処女航海の際、
ニューヨーク・マンハッタンの桟橋で
タグボートを船尾に危うく巻き込むという事故を起こし、

さらにその後も衝突など
1年も経たないうちに3度も事故を起こしたため、

船の評判は下落し、
ホワイト・スター・ライン社は
多額の修理費と賠償金を抱えることとなります。

<図説> オリンピック号
1911年6月 タグボートの巻き込み事故
1911年9月20日 イギリス海軍巡洋艦ホークとの衝突事故
1912年2月 プロペラの羽の脱落
→ 再びドックへ

1912年4月15日 タイタニック号の沈没

故障したオリンピック号は
北アイルランド・ベルファストの造船所に運ばれ、
造船中のタイタニック号と並び置かれました。

2隻の船は、外観も内部構造も瓜二つで
一般人には見分けがつかないほどでした。

タイタニック号にかけられた莫大な保険金

さて、オリンピック号の事故で
莫大な修理費と賠償金を抱えた
ホワイト・スター・ライン社は、

次なる豪華客船タイタニック号に
多額の保険をかけていたといいます。

かけた額は船体の損害だけでも
100万ポンドにも及び、

沈没事故の後は
相当の保険金が同社に支払われ、

1934年に吸収合併されるまでの22年間、
ホワイト・スター・ライン社は経営を続けました。

タイタニック号の沈没の際、社長イズメイ氏は
救助活動に助力したものの、
乗客の半数分しかない救命ボートに乗り込み
無事生還しています。

あなたはきっとこう思うでしょう。

“タイタニック号沈没事故は
保険金を目当てに仕組まれた事件だったのではないか?”

そして、疑惑を後押しする
更なる事実が発覚します。

乗船をキャンセルした人々

タイタニック号の沈没を
事前に知ってか知らずか、関係者の不審な行動。

タイタニック号の実質的なオーナーであった
ホワイト・スター・ライン社の親会社の社長、
ジョン・ピアポント・モルガン氏。

彼は大手金融機関モルガン社の創設者であり、
アメリカの金融・産業界を傘下に治める
アメリカ五代財閥の一つ、モルガン財閥の創始者です。

モルガン氏は航海前年に開催された
タイタニック号の進水式にも出席し、
初航海に乗船する予定でした。

しかし、直前に病気を理由に
乗船をキャンセルし、

同時に運ぶ予定だった
多くの美術品の積載を取りやめました。

ところがその実、病気にはかかっておらず、
愛人と旅行へ出掛けていたことが判明し、

加えて彼の友人であった
鉄鋼王ヘンリー・フリック氏など
船に乗る予定の50人余りの人たちが
一斉に乗船をキャンセルしていたのです。

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タイタニック号事故の真相の仮説

20世紀最大の海難事故、
タイタニック号沈没事故の真相。

これらの不審な点から浮かび上がった
一つの仮説は、このようなものです。

豪華客船オリンピック号の事故により、
ホワイト・スター・ライン社は経営難に陥った。

新たに作っていたタイタニック号は
オリンピック号と瓜二つ。

同社は秘密裏にこの2隻をすり替え、
事故で使い物にならなくなったオリンピック号を
タイタニック号と偽り、就航させた。

ここで事故を起こせば
莫大な保険金が下りるうえ、
オリンピック号も処分できる。

その後は新品のタイタニック号を
修理の完了したオリンピック号として
就航させれば、全ての問題が解決する。

そう企み、わざと氷山に衝突した・・・

タイタニック号の沈没後、
修理が完了した“オリンピック号“とされる船は
再び順調に航海を始め、

第一次世界大戦では
輸送船として戦火を掻い潜りながら
23年間、海を渡り続けました。

もし仮説が事実であるならば、
一体どこまでが想定通りだったのでしょう?

被害の規模は、遥かに小さく留まる
算段だったのかも分かりません。

そもそも、
世界最大級の豪華客船をすり替えるなど
本当に可能なのでしょうか?

続く後編では、
事故当時の証言や最新の調査結果を踏まえ、
別の角度から真相を究明します。

ぜひお楽しみに。

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