世界が恐れた圧倒的覇者!人類最強の戦闘集団5選!
彼らはなぜ最強となり得たのか?
無敵を誇る、気高き戦士たち。
国を背負い、傷を負い、
己の大切なものたちの
命運を負いながら。
歴史にその名が刻まれずとも、
その時、間違いなく彼らは歴史を変えた。
こんにちは。えむちゃんです。
今回は、実在した圧倒的覇者!
人類最強の戦闘集団5選をご紹介します。
最強の個!スパルタ軍
その軍勢、最強の名にふさわしい
誇り高き戦闘集団。
最強の戦士レオニダス率いる、スパルタ軍。
紀元前の古代ギリシャで栄華を極めたスパルタは
“世界最強の軍事国家”と名高い都市国家でした。
かつてスパルタは、住民一人あたりに
10倍もの奴隷を抱えるほどに栄え、
しかしそれは反面、リスクにもなりえました。
万が一、奴隷同士で結束し
反乱を起こされるようなことがあれば
大変な戦力差になるからです。
スパルタ人はこう考えました。
「ならば一人のスパルタ人が
奴隷10人分の強さになればいいのだ。」
非現実的に思えるこの理屈を
スパルタは国を上げ、現実にして見せました。
市民に等しく課せられる
極端なまでに過酷な軍事教育は、
生まれた瞬間から始まります。
新生児は体を検査され、
病弱な子は山の淵に投げ捨てられました。
7歳になると、男児はみな丸刈りにして
親元を離れ肉体訓練に加わり、
それは王の子も例外ではありませんでした。
12歳で殺しを実習し、
身も心も従順に育てられ、
そうして18歳まで生き残った
選りすぐりの戦士たちが
やっと一人前の成人となれるのです。
個々の力の突出したスパルタ軍はあまりに強く、
ギリシア中の人々から恐れられ、
「スパルタに攻め入ることは
自殺行為に等しい」とまで言われました。
なかでも、最強と名高い伝説のスパルタ戦士、
スパルタ王レオニダスの逸話については、
こちらの記事で詳しくお話ししていますので
概要欄からぜひご覧ください。
最強の戦術!マケドニア軍
その軍勢、戦術で敵を欺く
無敗の戦闘集団。
天才軍師アレクサンドロス大王率いる、
マケドニア軍。
紀元前4世紀の古代ギリシャ。
20歳でマケドニア王国の王位を継承した
アレクサンドロス3世、
通称アレクサンドロス大王は、
当時世界最強と名高いマケドニア軍を率い、
30歳になるまでのわずか10年間で
ギリシャからインド北西にまで広がる
大帝国を築きました。
当時のギリシャ諸国は
遥か東にあるインドを世界の果てと考え、
故に、果てまで征服したアレクサンドロス大王は
世界の偉大なる王として知れ渡ったのです。
マケドニア軍の強さの理由は、
歴史上のあらゆる戦術を研究し尽くし
軍事力に落とし込んだことにありました。
元々、弱小国だったマケドニアを
飛躍的に成長させたのは
父、フィリッポス2世でした。
アレクサンドロス大王と同様
軍事の天才であった彼は、
軍政改革を実施します。
常備軍に通常よりも倍長い槍(約4m)
“サリッサ”を持たせ、
高い防御力を誇る重装歩兵部隊を設置。
さらに攻撃と突破の重装騎兵部隊(ヘタイロイ)、
投石や弓矢の軽装歩兵部隊、
偵察や妨害、追撃などを行う軽装騎兵を作り、
それぞれの部隊の弱みを補い合う
『鎚と金床戦術』を編み出します。
強力な戦術で力を付けた軍隊を
さらに無敵にまでのし上げたのは、
アレクサンドロス大王の天才的な指揮でした。
さらに彼は自らも強い戦士で、
時に傷を負いながらも最前線で軍を導くその姿に
兵士の士気はさらに高まり、軍は一丸となったのです。
どれほどの苦境に立たされても
アレキサンドロス大王の柔軟な戦術のもと
軍隊の本領は最大限に発揮され、
彼の統治した時代、マケドニア軍は言葉通り、
負けなしでした。
最恐の征服力!遊牧騎馬民族(チンギスハン)
その軍勢、史上最大の帝国を築いた
侵略の戦闘集団。
猛将チンギス・ハン率いる、遊牧騎馬民族。
13世紀初頭、広大なモンゴル平原で
瞬く間に大陸を支配した男がいました。
彼の名前は、チンギス・ハン。
史上最強の侵略者にして、
モンゴル帝国の始祖となる人物です。
1162年に生まれたチンギス・ハンの人生は
苦難の連続でした。
9歳の時に
有力者の一人であった父親が毒殺されると、
部族からは見限られ追放されてしまいます。
成長した青年チンギス・ハンは
追放による報復を恐れた元部族の首長に捕らえられ、
命懸けの脱走でなんとか母親の元へ戻ります。
成人し婚約者と結婚すると、
敵襲によって妻を奪われ、
盟友と共に戦を起こし奪還に成功しますが、
今度はその盟友と仲違いして敵対。
囚われた味方の捕虜を
残忍な処刑によって失いました。
降りかかる数々の困難に屈することなく、
着実に力を付けたチンギス・ハンは
人格と指導力で次々に人望を集め、
1205年、43歳で
高原の全遊牧民を支配下に置きました。
そして翌1206年、モンゴル帝国を建国。
彼の圧倒的な指導力と周到な情報収集、
そして強大な組織力を前に
他国はなすすべもなく、降伏していきました。
チンギス・ハン率いる騎馬軍団の恐ろしさは、
抵抗するものを決して許さず、
一人残らず殲滅することにあります。
ただし降伏さえすれば
税金を払うことで命を許され、
また、自治も認められました。
チンギス・ハンが亡くなるまでに征服した地域は
西は、イスラム国家のホラズム朝、
北は南ロシア、東は、西夏(せいか)と
歴史上最も範囲が広く、
彼の死後も帝国領土はさらに拡大し、
世界最大の帝国にまで成長するのです。
最強の技術力!オスマン帝国軍
その軍勢、新型兵器を巧みに駆使する
技術の戦闘集団。
ヨーロッパ中を震撼させた、オスマン帝国軍。
600年以上に渡り繁栄した
イスラム教の多民族帝国・オスマン帝国は、
12世紀、小国が乱立する中、オスマン家が台頭し
1299年に建国されました。
以降、帝国は瞬く間に領土を拡大させ、
最盛期には、北はハンガリー、
南はエジプト・イエメン、西はアルジェリア、
東はインドに至るまで、広大な土地を支配しました。
やがてオスマン帝国の君主は、
イスラム世界における
行政上の最高指導者・スルタンと
宗教上の最高指導者・カリフの役割を兼ねるようになり、
名実ともに最高の地位を手に入れるのです。
長く栄えたオスマン帝国の強さは、
軍隊にいち早く最新武器を導入し、
使いこなしたことにあります。
14世紀、帝国は”射石砲“と呼ばれる
初期の大砲を導入。
それに伴い、兵器の製造、
火器を装備した独立部隊を配備。
兵器の扱いは世界で最も早かったとも言われ、
ヨーロッパや中東の周辺諸国に大きな衝撃を与えました。
1453年、オスマン帝国はビザンツ帝国を侵略し
首都コンスタンティノープルを
イスタンブールと改名して
新たに自国の首都としますが、
その襲撃の際、
巨大な大砲(ウルバン砲)が使用され
あまりの威力に
敵の防衛軍を絶望させたとも言われています。
加えて、オスマン帝国軍には
イェニチェリという
政権直属の精鋭部隊が存在しました。
有能なキリスト教の少年を集め、
英才教育を施し育成された親衛隊イェニチェリは、
元は弓矢を用い戦っていましたが、
火器の発展に伴い、銃を扱うよう訓練されました。
大砲と銃、技術と共に発展したオスマン帝国は
時代を先駆けた戦法で、周囲の強国を圧倒したのです。
最強の組織力!大陸軍(フランス・ナポレオン軍)
その軍勢、神出鬼没に戦場を駆ける
機動力の戦闘集団。
名将ナポレオン・ボナパルト率いる、
大陸軍(フランス・ナポレオン軍)。
1785年、16歳で
砲兵士官として任命されたナポレオンは
数多くの武勲を立てて昇進し、
わずか35歳という若さで
皇帝にまで上り詰めました。
ナポレオン率いるフランス軍は
敵国を次々に打ち破り、
最盛期には、ヨーロッパ大陸の大半を支配しました。
当時のフランス軍の最強たる所以は、
その圧倒的な機動力。
ナポレオンは、軍の組織構造を徹底的に
細分化しました。
例えば、指揮系統を整えた上で、
指揮官たちが迅速に判断を下せるよう
裁量権を与えたり、
行進を軍団毎に行わせ
周囲の地形や位置関係に合わせて
前後に一定の間隔を設けたことで
柔軟に危険を回避できるよう改革したのです。
このような戦略により
兵の機動性は飛躍的に向上し、
その結果、敵の迎撃準備が整うよりも前に
戦線を形成し、戦いを有利に進められるようになりました。
神出鬼没と恐れられたフランス軍を
力強く率いた大革命家・ナポレオン。
彼の英雄になるまでの軌跡、
具体的な武功の内容については
こちらの記事で詳しくご紹介しています。
ぜひチェックしてみてくださいね!