日本の歴史から消えた空白の150年!日本が激変した空白の四世紀の謎!
私たちの住む日本の歴史において、
一切の記録が残されていない
“空白の150年”があったことはご存知でしょうか?
遥か昔、邪馬台国の卑弥呼が倭国の女王として君臨した2~3世紀。
次いで、4~5世紀頃になると
連合政権“ヤマト王権”が日本列島を初めて統一します。
その間に存在する150年間、
日本史の記録はすっぽりと抜け落ちているのです。
これを、人々は“空白の四世紀”と呼びます。
不思議なことに、この空白の期間で
日本の古代文化は著しく変化を遂げています。
記録に乗らないというのは、至って不自然です。
一体、この間に何が起きていたのでしょうか。
この不自然な歴史の空白は
あるいは誰かの手によって
人為的に操作されたのかもしれません。
こんにちは、えむちゃんです。
今回は、日本の歴史から消えた
“空白の四世紀”の謎をご紹介します。
空白の四世紀とは?
日本の歴史のミステリー、消えた“空白の四世紀”の謎。
邪馬台国を統べた女王・卑弥呼の死後、
各地の豪族らが連合政権を形成した
ヤマト王権が成立するまでの、空白の150年間。
これは西暦でいうと、266年〜413年にあたります。
そもそも、日本の歴史とは
どのように記録されてきたのでしょう。
元来、日本人は文字を持たない民族でした。
日本最古の歴史書『古事記』が成立したのが
8世紀初頭であり、それ以前のことは
文字で記録されていなかったのです。
しかし、国境を越え
中国の歴史書には、日本の記録が登場します。
途中、ピタリと記述が消えてしまう空白の期間を除き、
その前後の時代については、非常に詳細に記されています。
現代の私たちはそのおかげで、
日本の歴史を知ることができているのです。
倭国を記した中華王朝の歴史書
まずは、記録上に残されている
“空白の四世紀”前後の
日本の様子を見てみましょう。
中国の歴史書『魏志倭人伝』には
このように書かれています。
三世紀初頭、当時の日本は、“倭(わ)”と呼ばれていました。
倭には、30ほどの小国が存在し、
それらの中心であった“邪馬台国”を治める卑弥呼が
倭の国の女王として君臨していました。
239年、卑弥呼は当時の中国、魏へ使者を派遣し、
魏の皇帝が「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を
卑弥呼へ与えたと記録されています。
翌240年に使者は邪馬大国へ帰国します。
歴史書には邪馬台国への行き方についての記載もありますが、
様々な解釈ができるため
邪馬台国が日本のどこにあったのか
未だはっきりとはわかっていません。
数年後の247年、邪馬台国と
かつてより不仲であった狗奴国(くぬこく)が戦争をし、
その同時期に卑弥呼が亡くなります。
卑弥呼の詳細な没年は不明ですが、
いくつかの史書には
240~249年の間に死亡したと記録されています。
249年、卑弥呼が死亡したのち
男の王が統治しましたが、国は混乱に陥り内乱が続きました。
そこで、卑弥呼の後継者にあたる“台与(とよ)”という人物が
女王となり、ようやく国の混乱はおさまります。
中国・魏の滅亡後、次に成立した晋(しん)の時代に
書かれた歴史書『晋書(しんじょ)』には、
266年、台与(とよ)が中国へ使者を送ったことが記されています。
そして、その記録を最後に
日本に関する記述はパタリと消えてしまいます。
再び日本の情報が登場するのは、
約150年後の空白をあけた413年の記録です。
中国王朝の歴史をまとめた
『梁書(りょうしょ)』、『南史(なんし)』、『宋書(そうじょ)』の3書には
413年に倭から使者が送られてきたということ、
そして396年〜482年にかけて
讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の
五人の王が登場したということが書かれています。
このように、
これだけの情報が細やかに記録されているにもかかわらず、
266年〜413年の間だけが、なぜかぽっかりと穴があるのです。
空白の150年間で激変したこと
記録が途切れていた空白の150年間で、
日本は激変しました。
それまで30余りの国々を治めていた”邪馬台国”による連合国家から、
大王と豪族の連合政権である”ヤマト王権”の時代へと移ります。
現在の奈良県北部にあたる、ヤマト地方に成立した
ヤマト王権は、300年以上も続きました。
頂点に立つ”大王”たちは、長い年月を経て
いつしか”天皇”と呼ばれるようになりました。
変化したのは国の体制だけではありません。
騎馬文化
たとえば『魏志倭人伝』によると、
空白の150年の前の時代、
倭の国には馬や牛がいないということが記されていました。
しかし、空白後のヤマト王権の時代の遺跡からは
馬の骨や馬具が大量に出土されています。
入れ墨文化
生活様式だけでなく、風習に関しても
邪馬台国とヤマト王権の時代を境に変化しています。
邪馬台国には、入れ墨の文化があり、
歴史書「晋書(しんじょ)」によれば
男性は大人、子供にかかわらず
皆が、顔と身体に入れ墨をしていたとあります。
ところが、ヤマト王権では
入れ墨の文化が消えたばかりか、
罪人の証とされるなど、
むしろ否定的なものになっているのです。
空白の前後で、歴史書に登場しても何ら不思議でない
大きな出来事が様々起こったであろう、変動の150年間。
なぜこの期間だけが歴史から消えているのか、
その理由については様々な推測がありますが、
一説では、中国が戦乱の時代に突入し、
日本のことどころではなくなってしまったためではないか
といわれています。
ところで、この空白の歴史における最大のミステリーは
ここからさらに300年の時を経て作られた
日本の歴史書の中にありました。
日本の歴史書の記録
266年〜413年の“空白の四世紀”から
約300年の時が経ち、時は8世紀。
ようやく日本でも、自国の歴史を記した文献が作られるようになります。
712年に成立し、
神々が支配したとされる神代の時代から
推古天皇(554-628年)の時代までの
神話や伝説をまとめた、日本最古の歴史書『古事記』。
720年に成立し、
神代から持統天皇(645-703年)の時代までの記録をまとめた、
日本最古の正史『日本書紀』。
これらの文献は、
当時から時代を遡り、過去の日本の歴史についても
記録されていました。
ただでさえ300年も前の事柄、しかも日本には文字の記録がなかったため
一部は中国の歴史書も参考にした形跡があります。
日本書紀には、「魏志倭人伝」を参照したとする注釈のもと、
「倭の女王が中国・魏へ使者を送った」
という記載があります。
ところが、その使者を送った「倭の女王」である
卑弥呼や台与(とよ)の名前、そして邪馬大国に関する記述が
これらの日本の歴史書には、なぜか一切登場しません。
魏志倭人伝を参照したのなら、
あれほど登場していた邪馬台国や卑弥呼の存在は
十分認識しているはずです。
さらに奇妙なことには、
この「女王が魏へ使者を送った」とする記述は
神功皇后という人物に関する注釈として登場し、
読み手にはまるで彼女の実績のように受け取れるのです。
神功皇后とは、日本書紀に記録される
第14代天皇・仲哀天皇の皇后にあたる人物で、
仲哀天皇が崩御)、すなわち亡くなった後、
第15代天皇・応神天皇が即位するまでの
約70年間君臨した、“天皇家初の女王”であると言われています。
中国の文献にも載るほどの存在感を示した
邪馬台国や女王卑弥呼の存在。
正式な歴史書である日本書紀において、
なぜ伏せる必要があったのでしょうか?
女王・卑弥呼率いる邪馬大国の存在が
何者かにとって、よほど都合が悪かったのでしょうか。
真実は、未だ明らかになっていません。
空白の150年の間で、
日本の歴史は大きく変わり、
邪馬台国が統べる時代から
ヤマト王権が統べる時代へと変化しました。
この間に日本で一体何が起こっていたのか、
邪馬台国とヤマト王権の関係についても、未だ謎に包まれています。
一説には、
邪馬台国がヤマト王権に滅ぼされた、という説や
邪馬台国が支配範囲を広げ、ヤマト王権を確立した
という説があります。
これらの謎を明らかにするには、
“邪馬台国が存在した場所”が鍵となります。
日本の歴史を根本から塗り替えてしまう
“邪馬台国の所在地”に関する研究は、
また別の機会にご紹介しましょう。
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