両面宿儺は実在した!?飛騨に残る宿儺伝説の謎!
「(仁徳天皇即位)六十五年、
飛騨国にひとりの人がいた。
宿儺という。
その姿は、一つの体に二つの顔。
顔はそれぞれ、反対を向いていた。
頭は合わさり、うなじがなく、
それぞれに手足があり、
膝はあるが、膝裏とかかとがなかった。
力が強く、身軽で素早く、
左右に剣を帯びて、
四つの手で弓矢を用いた。
そうして天皇の命令に従わず、
人民から略奪をして楽しんでいた。
それゆえ、和珥(わに)の先祖、
難波根子武振熊を遣わせ、殺させた。」
『日本書紀』(現代語訳)
今から約1600年前に存在したとされる、“両面宿儺(りょうめんすくな)”。
3世紀当時の日本、倭国を統治するヤマト王権に背いた邪悪な存在として語られる一方で、飛騨地方の伝承では、民を救う英雄として描かれています。
人間離れした異質な存在は、朝廷に仇なす怪物か?
はたまた人民を助ける救世主か?
こんにちは、えむちゃんです。
今回は、異形の鬼神“両面宿儺”の謎をご紹介します。
日本書紀に残る記録
両面宿儺は、西暦377年、第16代天皇・仁徳天皇の時代に存在したとされています。
729年に成立した歴史書「日本書紀」には、「宿儺」という名で記録が残っています。
仁徳天皇即位65年の377年、統一国家成立に向け勢力を伸ばしていたヤマト王権は、現在の岐阜県に位置する飛騨国へと歩みを進めました。
そこへ立ち塞がったのが、宿儺です。
日本書紀によると、その姿は、一つの胴体に2面の顔、手足が4本ずつある怪物でした。
ヤマト王権に仇なす宿儺は、人々から略奪を行い、苦しめることを楽しみとしていたとされています。
その悪行を見かねた朝廷は、難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を派遣し、討伐することに成功しました。
武振熊とは、日本書紀では、神功皇后(321-389年)の歴史を記した箇所にも登場する武人です。
とある皇子が反乱を起こした際の討伐にも参加しています。
飛騨の地に残る記録
宿儺は、日本書紀においては逆賊として登場する一方で、当の伝説の舞台である飛騨・美濃地方では、その土地の人々を救った「両面宿儺」として様々な伝承や記録が残されています。
飛騨山脈の南に位置する、岐阜県高山市丹生川町の伝承によると、両面宿儺は武術に優れた飛騨の豪族であり、また神祭の司祭者や、農耕の指導者という一面もあったと言われています。
また、飛騨の山地を開拓し、弱い立場の人々を外敵すなわち中央集権から守ろうとしたとも伝えられています。
丹生川町には、両面宿儺が古代信仰の祈りの場として開いた飛騨千光寺と呼ばれるお寺があります。
今から約1600年前に両面宿儺が開山し、その約400年後、弘法大師の弟子の一人である真如親王が千光寺を建立しました。
1598年には、開祖である両面宿儺を祀った宿儺堂が建立され、その中には、高さ2m20cmの両面宿儺像が安置されています。
千光寺の伝承によれば、
両面宿儺は、八賀(はちが)郷日面(ひよも)出羽ヶ平(でわがひら)の岩窟の中から現れ、身のたけは十八丈、一つの頭に両面四肘両脚を有する救世観音の化身であり、天皇の命により「七儺(しちな)」と呼ばれる鬼を討ったとされています。
両面宿儺と武振熊命の死闘
日本書紀に記された宿儺と武振熊の戦いは、飛騨の伝承においては、さらに詳しく描かれています。
それによると・・・
仁徳天皇の時代、
飛騨高原では独自の文化を持った人々が暮らしていました。
そんな彼らを「両面宿儺」はまとめあげていました。
しかし、中央集権を進める中で、飛騨だけが例外というわけにはいきません。
ヤマト王権は何度も飛騨に軍勢を差し向けます。
ところが両面宿儺の軍は、圧倒的な力を持ち、幾度もヤマト王権の攻撃を退けました。
痺れを切らしたヤマト王権は、武振熊を大将に任命し、両面宿儺の討伐作戦に打って出ます。
その時、出羽ヶ平に居た両面宿儺は、自分がいることで村に被害が出るのを避けるため、その地を出て戦うことを決めました。
村人たちは両面宿儺をもてなしましたが、それでも彼は、村人たちに迷惑がかかることを恐れ、一人で岩の窪みにご飯を盛り、食事をとったとされています。
そして、これが両面宿儺にとっての最後の晩餐となります。
食事を盛った岩は善久寺の御膳石として、現在でも残っています。
両面宿儺は武振熊の軍を迎え撃つため、部下を率いて高沢山で待ち伏せをしました。
ついに戦いは始まり、長い攻防の末、両面宿儺の軍は一度退却し、山の中へと消えていきました。
武振熊の軍はその後を追い、そこで両面宿儺が拠点としていた出羽ヶ平の洞窟を発見します。
武振熊らは洞窟を目指して岩山をよじ登り、再び攻防戦が始まります。
両面宿儺は、人間離れした圧倒的な力を持っていました。
目にも止まらぬ速さで戦場を走り回り、岩石や引き抜いた大木を投げつけ、敵を追いやりました。
しかしそれでも、人数の少ない味方軍は徐々に疲れを見せ、最後には、武振熊と両面宿儺の一騎打ちとなります。
激闘の末、武振熊に軍配が上がりました。
武振熊は、両面宿儺の強さを認めたうえで、降伏し従うように促しますが、両面宿儺はこれを断り、討ち死にします。
両面宿儺伝説の真相とは?
さて、日本書紀と飛騨地方の伝承の数々、双方を照らし合わせることで、両面宿儺伝説の真相としての、ある一つの仮説が立てられます。
日本書紀は、ヤマト王権の勢力が各地の豪族に接触し、征服した記録とも言えます。
そして、ヤマト王権に従わない勢力については、蔑むように描写されていました。
一つの胴体に2面の顔、手足が4本ずつある異形として描写された、宿儺。
それと同様に、当時のヤマト王権に従わなかった他の勢力も“土蜘蛛”などと呼ばれ、人ならざるものとして
蔑視されるとともに、畏怖されていたのです。
そして、その多くは、ヤマト王権によって葬られることとなります。
さて、これを両面宿儺伝説に当てはめると、どうなるでしょうか?
ヤマト王権は、畿内中央の大王を中心とし、各地の有力な首長や豪族と同盟・連合関係を築き、勢力を広げていきました。
しかし、同盟といえど、その実態は平等なものではなく、各地の豪族は貢物や奉仕を強要されていました。
ヤマト王権は、飛騨を治める豪族だった宿儺に対しても畿内への参上を求めますが、民を救うため、宿儺はこれを拒否。
そうして最終的にヤマト王権と戦ったというのが、現代に残る「両面宿儺伝説」の真実ではないかと言われています。
私たちの身近にある様々な伝承。
それらはこの両面宿儺伝説のように、単なる空想上の御伽噺ではなく、過去に実際に起きた出来事を後世に残すために伝えられたものなのかもしれません。
ところで、もしそうであれば、世界中の伝承に何故か必ずと言っていいほど登場する地底世界の存在も、その一つなのでしょうか?
そのお話は、こちらの記事でご紹介していますので、気になる方はぜひチェックしてみてくださいね!
→ 『【前編】地底世界は存在するか!?世界中の神話に共通する地下都市の謎!』