【前編】ハーメルンの笛吹き男伝説は実話だった!?恐ろしすぎる闇の物語の真相

1284年、ドイツのハーメルンという街では

ネズミが大量に住み着き、街の人々は困り果てていました。

 

ある時そこへ、見たこともない

色とりどりの服を身に纏った男が現れ、こう言いました。

 

報酬をくれるなら、

ネズミを追い払ってあげましょう。

 

街の人々は、半信半疑で承知します。

 

男はなにやら、笛を吹きはじめました。

 

すると不思議なことに

ネズミたちは一斉に男の後を追いはじめ、

とうとう一匹残らず川へ溺れさせて見せたのでした。

 

ところが、街の人々は約束の報酬を

渡してはくれませんでした。

 

怒った男は、去り際に言い残します。

 

それならば、代わりにお前たちの

大切なものをいただくぞ

 

男が再び現れたのは、6月26日のこと。

笛を吹きながら、男が通りを歩くと

今度は街の家々から、子供たちが出てくるではありませんか。

 

やがて集まった130人の子供たちは

笛吹き男に続くまま

やがて町外れの山にある洞窟の中へと消えてゆき、

親がどれだけ探しても、二度と帰ってくることはありませんでした。

――――

中世ヨーロッパの本に綴られた、とある奇妙な物語。

 

舞台となったハーメルンでは、

歴史上、物語と同じ日、同じ場所で、

同じく130人の子供の集団失踪事件が

実際に起きているのです。

 

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、闇深きハーメルンの笛吹き男伝説の謎をご紹介します。

 

 

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グリム兄弟の恐ろしい物語

『ハーメルンの笛吹き男』は、

グリム兄弟によってまとめられた

『ドイツ伝説集』に収められた物語の一つです。

 

19世紀にドイツで活躍したグリム兄弟。

 

『グリム童話』があまりにも有名なため

世間では文学者の印象が強いですが、

実は、非常に優秀な言語学者でもあり、

同時に、ドイツの古文学や民間伝承を研究した文献学者でもあります。

 

兄、ヤーコプ・グリムと

弟のヴィルヘルム・グリムは、

ギムナジウムという、日本でいうところの中高一貫校を

首席で卒業し、大学卒業後は大学教授となります。

 

兄・ヤーコプは、後に外交官を務めたり、

ナポレオン失脚後のウィーン会議に特別秘書として参加したりと

政治的にも活躍しました。

 

また、弟・ヴィルヘルムも兄と共に

ゲルマン語学やドイツ語文献学の基礎を築くなど

兄弟揃って研究者として数々の功績を残しました。

 

そんな彼らが1812年に出版した『グリム童話集』は、

実は創作された物語ではなく、

古くからドイツで語り継がれてきた物語を

兄弟が直接聞き集めて編集したものでした。

 

伝承を比較的忠実に綴ったグリム童話には

当初、過度に残酷な事件や過激な描写が多くありました。

 

その後は出版を重ねる中で

表現を和らげたり、いくつかの作品を削除したりすることで

徐々に子供も読めるようなお話へと改善されます。

 

とはいえ、伝承に基づくグリム童話は

それら一つ一つが、かつて実際に起きた出来事を描いた物語である

可能性があるといえるのです。

 

ある日突然、130人もの児童が失踪した

『ハーメルンの笛吹き男』の物語も、その一つ。

 

驚くべきことに、物語の舞台であるハーメルンの街には、

この事件が実話であったことを裏付けるような

様々な痕跡が残されているのです。

 

 

ドイツ・ハーメルンに残る悲しき痕跡

ドイツ北部に位置する、人口5万7千人の小さな街・ハーメルン。

 

かつては小麦の集散地として栄えた街ですが、

その端々には、悲しい歴史を物語る景色があります。

 

舞楽禁制通り

街の中心部にある、“舞楽禁制通り”。

そこは、笛吹き男が広場に子供たちを集めた後、

東門から町の外へ出るまでに通った道だと言われています。

 

街に住む人々はかつての事件を悼み、

この道を通るときには、踊りや音楽を控えなければならない

という慣わしが、今でも守られています。

 

そのため、祭りや結婚式の日でも、

この通りだけは静かに歩きます。

 

ちなみに、グリム童話が書かれた18世紀ごろには

既にそのような習慣があったとの記述があり、

古くからの習慣であったことが伺えます。

 

 

マルクト教会のステンドグラス

旧市街の中心に位置する“マルクト教会”。

古くから存在する教会で、

第二次世界大戦によって一度は全壊しましたが、

1950年代に再建されました。

 

1300年頃に改築された際、

笛吹き男による子供たちの失踪事件をモチーフとした

ステンドグラスが設置され、

これが事件に関する初めての記録であるとされています。

 

残念ながら、このステンドグラスは

1660年に破壊されてしまいましたが、

複数の歴史書がこのステンドグラスの存在を記しています。

 

ちなみに、1592年に描かれた最古の笛吹き男の水彩画は

このステンドグラスを模写したものです。

 

ステンドグラスには、笛吹き男の事件を記した

このような説明文も書かれていたとされています。

 

1284年、聖ヨハネとパウロの記念日

6月26日

色とりどりの衣装で着飾った笛吹き男に、

130人のハーメルン生まれの子供達が誘い出され、

コッペンの近くの処刑の場所でいなくなった。

 

コッペンとは、ハーメルンの周囲にある

丘の一つとされていますが、

どれを指すかはわかっていません。

 

 

旧市庁舎や新門に刻まれた文章

町に残る痕跡は、これだけではありません。

 

旧市庁舎に刻まれた銘文

13世紀末に建てられ、

14~16世紀に増築された市庁舎には、

このような文章が刻まれています。

 

主キリスト生誕の後1284年

ハーメルンで生を享けし子等130人

笛吹き男に連れ出され

ケッペンの山中へと消える

 

 

門に刻まれた文章

また、かつて使われていたハーメルンの門には

ラテン語で次のような文章が彫られています。

 

魔術師130人の子等を市より連れ出せしより

272年の後、この門は建てられたり

 

 

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ハーメルンでの児童失踪事件に関する文献

さらに、ハーメルンでの集団失踪事件は、

19世紀にグリム童話が出版されるより遥か前から

様々な歴史的文献の中にも記録されています。

 

街の公式文書・法書

ハーメルンの町には、15世紀から

当時の法律や取引について記録した公式文書が

大切に保管されています。

 

集団失踪事件の発生以降は、

事件の年を基点として

年代が降りなおされています。

 

かつては、何か告示を行う際には、

事件から経過した歳月を読み上げるのが

通例だったといいます。

 

 

リューネブルクの手書本

1719年にドイツ・リューネブルクの文書館で発見された

リューネブルクの手書本』。

 

一度行方が不明になり、1936年に再び発見されます。

 

このリューネブルクの手書本は、

1430年〜1450年頃に修道士によって書かれたと考えられており、

事件を記した現存する15世紀の資料では

最も古い記録とされています。

 

『グリム童話』より400年近くも前に記された

事件の内容とは、このようなものです。

 

1284年6月26日。

30歳ぐらいと見られる若い男が橋を渡り、町に入ってきた。

男は極めて上等な服を着ており、美しかった。

 

男が奇妙な形の銀の笛を町中て吹き鳴らした。

すると、笛の音を聞いた130人の子供たちは

男に従い、東門を通ってカルワリオ、あるいは

処刑場のあたりまで行き、そこで姿を消してしまった。

 

子供たちの行方は誰にもわからず、

子供らの親たちは町から町へ探し回ったが

結局何も見つからなかった。

 

 

1284年6月26日に

ハーメルンの町で起きた130人の児童失踪事件。

 

童話「ハーメルンの笛吹き男」は、単なる童話にとどまらず、

事件の傷は、街に、文化に、歴史に、

深く刻まれていました。

 

さて、ここまでで、物語が史実であったことはわかりました。

 

では実際に連れ去られた子供たちは、

一体なぜ、どこへ消えてしまったのでしょう?

 

組織的な犯罪に巻き込まれたのか?

はたまた、口に出すことも憚られるような大虐殺が起こったのか?

 

事件に関する様々な記録と

当時の中世ヨーロッパの時代背景を

丁寧に読み解くことで、

事件の全貌は少しずつ明らかになります。

 

 

「ハーメルンの笛吹き男」、その驚愕の真相については、

続く後編でご紹介しますので

興味のある方は、ぜひチェックしてみてくださいね!

 

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