【後編】事件の真実が明らかに!?ハーメルンの笛吹き男伝説の真相!

ドイツに古くから伝わる伝承を物語にした、童話「ハーメルンの笛吹き男」。

そこに描かれた130人の児童失踪事件は、歴史上、実際に起きた出来事でした。

1284年6月26日、ドイツ・ハーメルンの街に現れた奇妙な格好の男。

彼の吹き鳴らす笛の音に従うように街から連れ出され、こつぜんと姿を消したハーメルンの子供たち。

一体、彼らの身に何が起きたのでしょう。

当時のヨーロッパの時代背景や、様々な角度から書かれた文献を辿ると、不気味な事件の真相が見えてきました。

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、”ハーメルンの笛吹き男”に描かれた事件のその全貌をご紹介します。

童話が実話であることを裏付ける古い文献やハーメルンの街に残る事件の痕跡については、前編でご紹介しています。

リンクを貼っていますので、ぜひ先にチェックしてみてくださいね!

→ 『【前編】ハーメルンの笛吹き男伝説は実話だった!?恐ろしすぎる闇の物語の真相

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歴史から読み解く『児童失踪事件』と『ネズミ大量発生事件』

「ハーメルンの笛吹き男」が史実を元にした物語とはいえ、童話の内容だけでは謎が残ります。

男は一体何者なのか。子供たちはどうなったのか。

当時記録された複数の文献を読み解き、事件の真相に迫りましょう。

記録を辿ってまず初めに気がつくことがあります。

それは、物語との相違点です。

実は、西暦1500年以前の史料には、街に大量発生したというネズミの存在がどこにも登場しません。

これは一体どういうことなのでしょうか?

前編でご紹介したように、事件に関する最古の記録とされる、1300年頃に設置されたマルクト教会のステンドグラスに書かれた文章や、修道士によって書かれたといわれる『リューネブルクの手書本』には、ネズミに関する記述は一切ありません。

“子供の失踪事件”と“ネズミの大量発生”が初めて結びつけられたのは、1565年に書かれた『チンメルン伯年代記』でした。

『チンメルン伯年代記』の記録には、1538年にネズミの被害があり、放浪の冒険家によって駆逐されたこと、また、1557年にも同様にネズミの発生があったと記されています。

そして、その二度にわたる被害のちょうど間に、ハーメルンでの児童失踪事件のことが書かれていました。

つまり、この時点でネズミによる被害と失踪事件との関連性はないということです。

ハーメルンはもともと、小さい街ながら小麦の集散地であり、製粉所などの食品工業が盛んな場所でした。

そのため、それらを食い荒らすネズミの存在は、街にとって最大の脅威でもありました。

ハーメルンにおける、二つの大きな恐怖の対象。

130人もの“児童失踪事件”と、度重なる“ネズミの大量発生事件”。

この二つが、いつしか長い年月をかけてドイツ全土に広まる過程で、一つの物語として形が変化していった可能性が高いのです。

ハーメルンでの児童失踪事件の真相とされる仮説

ネズミに関する要素は、事件とは関連性がないことがわかりました。

それでは、この物語における、最大の謎。

恐ろしい笛吹き男のその正体とは一体、何者なのか。

そして現実にはとても考えがたい、130人の児童失踪事件。

消えた子供たちの身に、一体何が起きたのでしょう。

事件発生は、1284年6月26日。

当時の時代背景を探ると、真実に迫る3つの仮説に辿り着きます。

少年十字軍

13世紀。

中世ヨーロッパの各地では、少年十字軍によって、多くの子供が突然失踪する事件が度々発生していました。

少年十字軍とは、神の啓示を受けたとする少年の呼びかけにより、少年少女を中心に結成された十字軍です。

彼らは、聖地奪還を目的とした長距離遠征を行っていました。

1212年には、フランスで羊飼いの少年の扇動により数千人の少年少女と、司祭や巡礼者を合わせた計3万人もの人々がマルセイユまで行進。

その後、二人の商人による運送船に乗ったまま行方不明になるという大事件が発生しています。

一説では、運送船の二人の商人が実は奴隷商人で、乗り込んだ子供たちはエジプトへ売り飛ばされてしまったと言われています。

また、同年、ドイツ・ケルンでも子供十字軍による遠征が発生し、大人子供を合わせた数千人がエルサレムを目指しました。

遠征は頓挫し、結局、子供たちは帰路につきましたが、その途中でほとんどが餓死するか脱落してしまい、故郷に帰ることができた子供は非常に少なかったと言います。

この時代には、こうした運動が各所で度々起こっていました。

これをハーメルンの失踪事件にあてはめると、同様に、街の子供たちが十字軍に参加し、そのまま帰ってこなかったという一つの仮説が立てられるのです。

奴隷説

一方で、西ヨーロッパでは、こうした少年十字軍や十字軍の遠征によって対外拡張を図るとともに、ポーランドやルーマニアなどの東ヨーロッパの開拓や貿易が盛んになった時期でもありました。

こうした開拓時代の中で、子供は貴重な労働力であり、各地では、地理的にも近いドイツで子供を誘拐しては東欧地域で売り飛ばすという事件が多発しました。

なかには、孤児や婚外子、家族によって売られた子供たちもいたことでしょう。

しかし、売られた子供たちの詳細な記録は後世には残りません。

ハーメルンの街で同様の子供攫いがあったと考える場合、人口約2000人のうちの被害者130人というのは全体の6.5%にも昇ります。

それだけの住民たちが一度に攫われ、売買されたのだとすれば、非常に恐ろしいことです。

東方移民説

これに対し、誘拐され奴隷となったのではなく、子供たちが自らの意思で街を出て、東方へ移り住んだとする“東方移民説”は、現在最も有力な説とされています。

13世紀のドイツは、農業生産力の向上に伴い、人口が急増しました。

そうした状況の中、土地と権力の全てを相続するのは長男のみであり、長男以外は農奴になるほか道はありませんでした。

これは小麦の集散地であるハーメルンにおいても、当然例外ではありません。

決められた道を生きるしかないハーメルンの多くの若者たちは、外の世界に希望を見出し、故郷を捨て、

自ら東欧の新天地へと向かったのです。

この移民説を裏付けるかのように、当時創建された東方植民地の地名や近辺に暮らす人々の名前には、ハーメルン周辺で見られるそれと類似したものが数多く存在します。

また、東欧ルーマニアやハンガリーでは、ある日突然、聞き慣れない言葉を話す大勢の子供たちが現れたという伝説が残っており、ハーメルンの集団失踪事件との関連性を思わせます。

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ハーメルン市の公式見解

東方移民説は、ハーメルン市の公式見解にもなっています。

東方地域への勢力拡大を目論む当時の権力者たちは、ロカトールと呼ばれる植民地請負人に植民事業を任せ、植民地域で数々の街を建設させました。

言葉巧みなロカトールたちは、新天地への移住を望んでいたハーメルンやその周辺の人々に高い報酬をちらつかせ、労働力として送り出します。

そして、このロカトールこそが、物語に登場する“笛吹き男”の正体であるというのです。

ある日、忽然と姿を消してしまった130人の子供たち。

この奇妙な事件は、伝承から童話へと形を変え、今も風化することなく、国境を超えて脈々と語り継がれています。

古くから伝わる物語の中にはしばしば、本当にあった史実の出来事が散りばめられています。

それは、私たちの住む日本に伝わる伝説も同様です。

1600年前から日本で語り継がれてきた、異形の鬼神・両面宿儺も本当に存在していたのかもしれません。

飛騨に残る両面宿儺伝説の謎については、下記リンクでご紹介していますので、気になる方はぜひチェックしてみてくださいね。

→ 『両面宿儺は実在した!?飛騨に残る宿儺伝説の謎

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