空のオーパーツ!”天空都市”マチュピチュの失われた古代技術の謎!(前編)
失われた空中都市・マチュピチュ。
標高約2,400mの尾根に築かれ、三方を断崖絶壁に囲まれたその遺跡の存在は、約500年もの間、世間に知られることはありませんでした。
街を構成する石積みの技術は非常に緻密で、剃刀の刃すらも通さないほど。
マチュピチュ遺跡は、現代に生きる我々が見ても驚愕するような高度な古代技術で建設されていました。
一体、誰が、なぜ、このような過酷な環境に街を築いたのでしょうか?
こんにちは。えむちゃんです。
今回は、“天空都市”マチュピチュ遺跡に秘められし、失われた古代技術の謎をご紹介します!
天空都市”マチュピチュ”の発見
1911年、南米・ペルーの奥地。
アメリカ・イェール大学のハイラム・ビンガム教授は、鬱蒼としたジャングルの奥地を探索していました。
ペルー第二の都市クスコから、北西に直線距離で約75kmに位置するその場所には、標高3000m級のワイナピチュ、マチュピチュの山々がそびえ立ちます。
草木をかき分け、ようやく二つの山の尾根に辿り着いた教授は、目の前の光景に驚愕します。
そこには、なんと失われた古代都市の遺跡が広がっていたのです。
遺跡は、北・東・西の三方向が断崖絶壁に囲まれ、山のふもとからは確認することのできない“空中都市”。
神殿や住居だけでなく、水路や噴水など街は美しく整備され、広場はおよそ4000平方メートルにもなる広大な造りです。
残された200以上の建造物はどれも精巧な石造で、遺跡を築いた当時の人々が圧倒的な技術力を持っていたことは、一目瞭然でした。
“マチュピチュ遺跡”の発見は、世界中に衝撃を与えました。
研究者たちは、さっそく調査に乗り出します。
マチュピチュは誰が作ったのか?
マチュピチュ遺跡の建設やその存在を示す記録は、発見まで一切残っていませんでした。
そのため、遺跡調査は、新たな発見の連続でした。
建築様式の調査から、その古代都市は1450年頃、当時栄えていたインカ帝国によって築かれたことがわかります。
インカ帝国とは、13~16世紀にかけて栄え、現在のペルー周辺に位置する大帝国です。
1438年、インカ史上初の王が即位し、現在のクスコ市に都市を建設します。
その後、アンデス全域へと領土を拡大し、急速に勢力を伸ばしました。
全盛期には、北はエクアドルやコロンビアの一部から、南はアルゼンチンにまで支配を進め、南米史上最大の領土を獲得。
約600万人もの人口を抱えていたと言われています。
わずか100年間で繁栄を遂げたインカ帝国でしたが、1532年、スペイン人による征服が始まると、帝国は突如として消えてしまうのです。
マチュピチュはなぜ作られたのか?
そんなインカ帝国の残した遺跡の中でも、“マチュピチュ遺跡”は特に有名な場所となりました。
その理由はやはり、山を覆う雲の合間に現す神秘的な街の姿が、人々の心を掴むからでしょうか。
一体なぜ、インカの人々は山岳地帯に、まして人の往来が非常に困難な標高2400mの絶壁に街を築いたのでしょう?
宗教的な理由
世界には、標高600mを超える岩山に築かれた修道院(ギリシャ/メテオラ)や、険しい岸壁の先に作られた道教の聖地(中国/華山)があるように、古代の人々はしばしば険しい場所に聖地を置き、巡礼を行いました。
マチュピチュ遺跡も同様、険しい山地に街が作られたのは、宗教的な理由が大きいと言われています。
過酷な環境に築くことで、宗教的に重要な場所を外敵の侵入から守る効果もありました。
実際、スペイン人がインカ帝国を侵攻した際、マチュピチュの街は存在に気付かれることなく、侵略を免れています。
食糧生産に関する調査
また、1997年に発表された、マチュピチュにおける食糧生産の研究結果では、遺跡内での農業生産だけでは、数百人規模の人間を養うことは不可能だとわかりました。
街の内部にも食料を備蓄する大規模な倉庫が存在しないことから、一般市民が定住するような街ではなく、やはり宗教的な施設としての街である可能性が高いと言われています。
神聖な建造物の数々
マチュピチュ遺跡に残る、数ある石造建造物には、神殿や儀式に用いられたであろうモニュメントなどが発見されています。
太陽の神殿
中でも最も重要なものの一つに挙げられるのは、「太陽の神殿」でしょう。
天然の岩の上に建つ神殿の東側には二つの窓があり、一つは冬至に、もう一つは夏至に、ちょうど太陽の光が差し込むよう設計されています。
インカの人々の信仰の対象は、太陽でした。
ゆえにこの太陽の神殿は、大変神聖な場所であったことが伺えます。
インティワタナ
マチュピチュ遺跡の中で一番高い場所に作られた花崗岩の柱は、”インティワタナ”と呼ばれ、これはインカの言葉で「太陽を繋ぎ止める場所」という意味を表します。
インカの人々が神と崇めた四つの山々を結び、ちょうど真ん中に位置するインティワタナは、最も神聖な場所とされていました。
柱の角は、東西南北、四つの方位を正確に示しています。
かつてインカの人々がインティワタナを作った目的は、諸説ありますが、農耕を行う時期を正確に把握するためであったり、儀式に用いるためだったたりしたのではないかと考えられています。
聖なる石
遺跡の一番奥には、「聖なる石」と言われる大きな石が祀られています。
この石は、背後にある神聖な山を象った形状をしています。
インカの人々にとって、山は“神”であり、山の形をした聖なる石に神が宿ると信じていました。
埋葬された人々の調査
このように、神聖な場所としてのマチュピチュの街には、古代の人々が埋葬された痕跡も発見されています。
2000年、アメリカ・テュレーン大学の調査により、マチュピチュ遺跡から見つかった174体の人骨の分析が行われました。
人骨は、遺跡に残る100箇所以上の墓地から見つかったものでした。
調査の結果、遺跡に埋葬された人々は、男女比が3:2、うち男性の約80%が15歳以上であることがわかりました。
また、頭の骨を人為的に変形させる頭蓋変形(とうがいへんけい)の痕跡が見つかったこと、周辺に武器がほとんど発見されなかったこと、加えてDNA解析により、埋葬された人々は隷属民であることがわかりました。
これらのことより、身分の高い人物が死亡した場合、その亡骸はインカ帝国の首都クスコに運ばれ、マチュピチュで働く人々はその地に埋葬されたのではないかと考えられています。
徐々にベールが剥がされる天空都市・マチュピチュ遺跡。
しかし、調査が進むほど、その謎は深まります。
実は、マチュピチュの地層調査を行ったところ、街の下には地震を引き起こす2本の断層が通り、さらに、大雨による土砂崩れが頻発する場所であることが判明したのです。
とても人が街を築けるような場所ではない。
それでも街は完成され、500年もの間、崩れることなく、その姿を止めていました。
恐るべきは、インカの人々が、鉄の道具も、車輪も、そして文字の文化も持っていなかったということ。
では、彼らは一体、どのようにして石を山の上まで運び、正確な計算と技術で寸分の狂いもなく石を積み上げたというのでしょう?
奇跡の古代都市・マチュピチュを築いた驚愕の古代技術については、続く後編でご紹介していますので、ぜひチェックしてみてくださいね!
→ 『最新研究で明らかに!”天空都市”マチュピチュの失われた古代技術の謎!(後編)』