最新研究で明らかに!”天空都市”マチュピチュの失われた古代技術の謎!(後編)
古代帝国インカの遺した天空都市、“マチュピチュ”。
標高2,400mの断崖絶壁。
自然災害の頻発する過酷な環境下に造られたその遺跡は、美しい街の形を崩すことなく、500年という長い時間を眠り続けていました。
まるで、再び発見される時を待っていたかのように。
遺跡にそびえる、非常に精巧な建造物の数々は、当時の高度な文明をありありと物語ります。
鉄の道具も、車輪も、文字も持たなかったインカの人々。
一体、どのようにして、これほどまでに完成された街を山の上に作り上げたのでしょう。
遺跡は、現代においても驚愕の高度な古代技術が散りばめられていました。
こんにちは。えむちゃんです。
今回は、最新の研究で徐々に明らかになる、”天空都市”マチュピチュ遺跡の失われた古代技術の謎をご紹介します!
マチュピチュ遺跡が一体なぜ作られたのか、どのような生活が行われていたのかについては、こちらの記事でご紹介しています。
ぜひ先にチェックしてみてくださいね!
→ 『空のオーパーツ!”天空都市”マチュピチュの失われた古代技術の謎!(前編)』
マチュピチュ遺跡の地理的特徴
<地理的デメリット>
マチュピチュ遺跡は、
地理的に非常に過酷な場所に建設されていました。
デメリット① 標高
第一に“標高”です。
マチュピチュ遺跡は、標高2,660mのワイナピチュと、標高3,082mのマチュピチュを結ぶ尾根の標高約2,400mの場所に作られています。
どれほどの高さかというと、ちょうど富士山の5合目の高さにあたります。
5合目からは気圧が低く、空気も薄くなるため、人によっては高山病を発症する恐れがあります。
標高に加え、遺跡は三方向、断崖絶壁に囲まれ、人が立ち入るには大変不便な立地でした。
デメリット② 二本の断層
第二に、遺跡の下に通る地震を引き起こす2本の“断層”です。
街のあった場所は、過去に何度も大地震が発生しており、地盤が崩れでもすれば、街はひとたまりもないでしょう。
デメリット③ 雨量
第三に、大洪水を引き起こす“大雨”です。
マチュピチュでは5月〜10月にかけて乾季となり、降水量が非常に少なくなります。
対して、その他11月〜4月の時期はすべて雨季にあたり、それまでとは打って変わって、土砂崩れを引き起こすほどの大雨が頻繁に降るのです。
山の上に造られたマチュピチュの街にとって、土砂崩れがどれほど致命的なものかは、想像に容易いでしょう。
<地理的メリット>
これほどまでに悪条件と思われる遺跡の地。
インカの人々は一体どのようにして、街づくりを実現できたのでしょう。
実は、マチュピチュには街づくりに必要な条件がちゃんと揃っていたのです。
メリット① 水源
まずなくてはならないのが、“水源”です。
マチュピチュの山には、標高2,700mの場所に湧き水がありました。
そこから水を引くことで、街の人々は生活用水を確保することができました。
メリット② 花崗岩
次に必要となるのが、街を造る“石材”です。
マチュピチュの山のなかでも、高台にあたる南西の丘からは、花崗岩が豊富に取れました。
これは地下にある2本の断層が、数百万年という長い年月をかけ、大量の岩石を生み出したためです。
インカの人々は鉄の道具こそ持ちませんでしたが、この花崗岩を利用することで石材を運ぶ労力を削減し、山の上に街を築くことができたのです。
さて、材料が揃ったところで、次に必要となるのは、人の技術です。
古代インカの人々は、一体どのような技術を用いて、500年後の今も形を保つ美しい街を作り上げたのでしょう。
天空都市を築いた古代技術の謎
1450年ごろに建設されたマチュピチュの街。
その高度な古代技術は、長年解明されていませんでした。
しかし近年、その謎は徐々に明かされ始めています。
高度な古代技術①:段々畑
マチュピチュの地に街を築く際、最も重要となるのは、地震や大洪水に備え、地盤を強化することでした。
そこで、山の地盤の強化と雨水の排水が行えるよう、山の急斜面に段々畑が造られました。
段々畑は内部構造にも工夫があり、上層から肥沃な表土、土砂、石が敷き詰められています。
これは濾過器として機能し、雨水が粒子の異なる層をゆっくりと浸透することで、水があふれることを防ぎました。
その結果、土壌が雨水で侵食されることなく、街の基盤は強化されるのです。
さらには段々の構造を活かして、農作物の栽培にも一部利用されました。
段々畑は、3mの高さの段が、山のふもとから山頂にかけて40段あり、その脇には3000段もの長い階段が作られています。
完成までにどれほどの労力が費やされたのか、計り知れません。
高度な古代技術②:水路
大洪水の原因となる雨季の大雨対策は、段々畑だけではありません。
街に引かれた見事なまでの“水路”は、人々を水害から守っていました。
古代インカの人々は、街の中に100以上の排水溝を設け、雨水が中央広場に集まるよう誘導しました。
中央広場は、段々畑と同様に濾過器の構造をしており、上層から、表土、土砂、花崗岩の切屑が非常に厚く敷かれています。
広さ数千坪、深さ3mにもわたる中央広場は、町中から集まる雨水を効率的に排水しました。
街中に通る水路は、晴天時や乾季の時期にも山の湧き水を絶やすことなく、人々に行き渡らせていました。
高度な古代技術③:道路
標高2400mの断崖絶壁。
人を寄せ付けない立地でありながら、かつてこの街では、外部との交流があったと考えられています。
かつてのインカ帝国の首都クスコの大広間から東西南北に伸びた道路は、カパック・ニャン(偉大な道)と呼ばれ、山岳地帯や高原を含むインカ帝国の隅々にまで広がっていました。
要所には宿泊施設も建設され、広大な土地を支配するために必要な情報伝達網が完備されていたと言います。
険しい山岳地帯に存在するマチュピチュにもこれらの道が通っており、クスコから徒歩で2週間程で辿り着くことができました。
マチュピチュの街へと続く道は、東側、西側、南側から1本ずつ、計3本あります。
道幅は80cm~1mほどの十分な広さがあり、さらに石積みによって階段が整備されていました。
また、道の勾配に合わせて階段の大きさが計算されており、荷物を運搬するラマなどが歩きやすいよう、幅の間隔は少し広めに調整されていました。
道路の曲線部に使用されている石畳は、現在も車道で使われているものと同じ形状で、進んだ都市開発の技術を窺い知れます。
高度な古代技術④:石積み
美しく整えられた遺跡の町並み。
マチュピチュの建造物は、クスコ様式の高度な石組みの技術を用いて、鉄などの金属を一切使うことなく、巧みに作られています。
一体、どのようにして花崗岩を加工し、精巧に石積みを行なったのでしょうか?
彼らはまず、花崗岩に石を打ち込むことで、石材を切り出しました。
切り出した大きな石は、丸太の上に滑らせて建設現場まで移動させます。
石を積み上げる際は、下の石の形に合わせて上に重ねる石の底を削ることで、ピッタリとくっつくように重ねました。
この際、別の中ぐらいの大きさの石で、切り出した大きな石を叩くことで微調整を行い、最後はさらに小さく固い石で叩くことで、表面を綺麗に整えました。
こうした工程を経て、剃刀の刃すら通さない精巧な石造建造物を完成させたのです。
研究によって少しずつ明らかになるマチュピチュ遺跡ですが、未だ残り続ける大きな謎があります。
これほどまで完璧に作られたマチュピチュの街からは、ある時期を境になぜか忽然と人々が姿を消したのです。
そればかりか、インカに残る伝承にも、そして、インカを征服したスペイン人の記録にも、マチュピチュ遺跡に関する記録が一切残されていないのです。
街が遺跡になるまでの間に、一体何があったのでしょう。
古代インカの人々は、この聖なる地を何らかの意図を持って隠したのでしょうか。
空中都市“マチュピチュ遺跡”。
全ての謎が明らかになる日は来るのでしょうか?
さて、遥か古代の遺跡からは、このマチュピチュの街のように、時として、その時代にそぐわない出土品が発見されます。
約2000年前の沈没船から見つかった“アンティキティラ島の機械“もその一つ。
紀元前に作られたその美しい機械は、15世紀の技術力に匹敵するほどの天才的な構造をしていました。
解明が進むほどに謎の深まる、世界最古のコンピューター”アンティキティラ島の機械”については、こちらの記事でご紹介していますので、気になる方はぜひチェックしてみてくださいね。
→ 『【前編】人類の叡智を超えた超古代文明のオーパーツ!アンティキティラ島の機械!』