明らかになる伝説の真実!?ヤマタノオロチの驚愕の正体!(後編)
一つの胴体に、八つの頭、八本の尾を持った巨大な怪物・ヤマタノオロチ。
スサノオノミコトによって退治されたと言い伝えられる異形の存在は、果たして、実在した怪物か、それとも・・・
こんにちは。えむちゃんです。
今回は、伝説の舞台の地に残る文化と時代背景から、ヤマタノオロチの正体に迫ります。
古より伝わるヤマタノオロチ伝説と、現代に残る数々の痕跡については、こちらの記事でご紹介していますので、ぜひ先にチェックしてみてくださいね!
→ 『日本古来の怪物と現代に残る痕跡!ヤマタノオロチの驚愕の正体!(前編)』
ヤマタノオロチの正体
伝承に伝わる、神や妖、異形の怪物。
それらの正体は様々です。
人々が恐れた、自然災害や疫病。
あるいは、中央の権力に抵抗する各地の勢力が怪物の姿で記録に描かれることもあります。
そしてその多くは、かつて実際に起きた史実がベースになっています。
当時の時代背景や風土、文化などは、歴史の謎を紐解く鍵となります。
伝説に描かれる舞台に寄り添うと、怪物ヤマタノオロチの正体と思わしき三つの仮説が浮かび上がってきました。
順を追って、見ていきましょう。
<水神説>
一つ目の説は、ヤマタノオロチは元々“水神”であり、信仰の衰退によって“怪物”となっていったという説です。
ヤマタノオロチ伝説は、書物や伝承により細かな違いはあるものの、そのほとんどが「ヤマタノオロチに食べられそうになったクシナダヒメを、スサノオノミコトが助ける」という物語になっています。
農耕民族であった日本人にとって、収穫を左右する“水”は生活において、最も重要なものの一つでした。
そのため、水源や井戸、川には水の神が住むと考え、水神の象徴としてヘビや龍を信仰していました。
ですが、こうした動物信仰は、時代の変化とともに廃れていき、神の象徴としての印象の薄れたヘビなどは、怪物に喩えられるようになったとする説もあります。
また、水と農耕が密接な関係にあることから、水の神と田の神には深い結びつきがあると信じられてきました。
ヤマタノオロチ伝説に登場するスサノオノミコトの妻・クシナダヒメは、
古事記では、櫛名田比売(くしなだひめ)と記されますが、
日本書紀では、奇稲田姫(くしいなだひめ)、稲田姫(いなだひめ)と記され、その名の通り、農耕の女神とされています。
これらのことから、ヤマタノオロチ伝説を解釈すると・・・
かつては、豊作を願い、水の神であるヤマタノオロチと、田の神であるクシナダヒメの結びつきを祈る儀式が行われていた。
しかし、動物信仰が衰退すると、ヘビなどの水神はやがて女性を食べる怪物として捉えられるようになり、これに代わり、人間的な性格を持ち合わせた英雄神であるスサノオノミコトが登場した。
このように解釈することができます。
<斐伊川の洪水説>
ヤマタノオロチの正体、二つ目は “洪水の化身”だとする説です。
前編でご紹介の通り、ヤマタノオロチ伝説の舞台、島根県雲南市には、「斐伊川」と呼ばれる川が流れており、ヤマタノオロチを退治する一連の出来事は、全てこの斐伊川右岸の近辺で起きています。
斐伊川は、昔から氾濫と洪水を繰り返してきました。
斐伊川の洪水の歴史を記した『斐伊川誌』には、1621年〜1866年の約245年間に62回の洪水が発生したと記録されており、甚大な水害の多発地帯だったことがわかります。
古事記が書かれた時代の記録についてはほとんど残されていませんが、何度も発生する水害を、当時の人々が
抗うことのできない怪物の仕業だと思っても、何らおかしくはないでしょう。
また、古事記によると、ヤマタノオロチは
「体に苔やヒノキ、杉が生え、
八つの谷と八つの尾根にまたがるほどの巨体」
とされています。
これを「山々を体とした出雲の自然そのものが、ヤマタノオロチの姿である」と考えます。
すると、ヤマタノオロチの悪行とは、すなわち自然災害であり、そして物語の中心“斐伊川”で洪水や氾濫を起こす怪物を退治するスサノオノミコトという男は、この川の治水に尽力した部族・人物なのではないか、という説があがったのです。
ただし、斐伊川の大規模な治水が行われたのは、古事記が記された奈良時代(712年)の遥か先、江戸時代(1674年)になってからです。
ヤマタノオロチの悪行、つまり斐伊川の洪水をスサノオノミコトなる人物・部族が治めたとするには、少し時代に開きがあるとも言われています。
そこで、残る第3の仮説が、最も有力なものとなってくるのです。
<たたら製鉄説>
近年唱えられている第3の仮説、それはヤマタノオロチの正体が“古代出雲のたたら製鉄”であるとする説です。
たたら製鉄とは、古くから伝わる日本の製鉄技術で、砂鉄と木炭を原料として鉄を生成する方法です。
たたら製鉄の歴史
日本に鉄が伝来したのは、紀元前の弥生時代前期ごろだと言われています。
当時の日本には鉄を加工する技術があるのみで、鉄自体は大陸から輸入していました。
その後、5〜6世紀の古墳時代になり、初めて日本独自の製鉄方法「たたら製鉄」が確立し、地域産業は発展していきました。
さて、そんな伝統技術“たたら製鉄”がヤマタノオロチ伝説として語り継がれた背景には、一体何があったのでしょうか?
ほかの記事でもご紹介の通り、古くから伝わる神話や伝承というのは、ある視点から見た実際の出来事がベースになっていたりします。
たとえば日本書紀などはヤマト王権が各地を征服した記録、そして中央集権に反発する勢力は、恐ろしい容姿の怪物として描かれています。
これを踏まえて、ヤマタノオロチ伝説の真相を紐解いていきましょう。
容姿の一致
まずは伝承に描かれたヤマタノオロチの姿を振り返ってみましょう。
「その目は
ホオズキのように真っ赤で、
その腹は
いつも血で爛れている。」
この“真っ赤な目”とは、たたら製鉄に関わる人々が炎を見つめる目のことを、そして“血で爛れた腹”とは、高熱で溶けて流れ出す鉄の様子を現していると言われています。
時代背景の一致
出雲地方でのたたら製鉄は、ヤマタノオロチ伝説の時代背景と一致します。
古事記(712年)や日本書紀(720年)とほぼ同じ時代に書かれた『出雲国風土記』(733年)には、出雲国で生産される鉄が非常に質が高いという記録が残されています。
地理的な一致
また、斐伊川周辺の遺跡からは、砂鉄を利用した製鉄が行われていた形跡が数多く見つかっています。
古くは弥生時代から、出雲の地域は鉄の産業が栄えていました。
このように、たたら製鉄は、容姿、時代背景、そして地理的にヤマタノオロチ伝説との関連性が伺えるのです。
たたら製鉄説の解釈
怪物ヤマタノオロチに喩えられた “たたら製鉄”。
以上のことから伝説を読み解くと、次のような解釈にたどり着きます。
ヤマタノオロチとは、すなわち、斐伊川や出雲の河川で砂鉄を採り、伝統的なたたら製鉄を行なっていた部族の人々。
スサノオノミコトとは、すなわち、中央集権を進めるヤマト王権。
勢力拡大のため出雲国に赴いたヤマト王権の勢力は、部族との戦いのすえ勝利を収めた・・・
スサノオノミコトが天照大神に草薙剣を献上したという描写は、出雲国の勢力がヤマト王権に屈服し、服従したことを表すのでしょう。
その後の出雲の歴史
伝説の舞台となった斐伊川周辺では、その後、さらに製鉄産業が栄えていきます。
良質な砂鉄が採れるこの地域では、山を切り崩し、土砂を川に流すことで、砂鉄と土砂を分離する「鉄穴(かんな)流し」が盛んに行われ、人々の自然との関わり方も変化していきました。
この地に伝わる神楽は、神代の物語が表され、現代まで舞い継がれています。
怪物ヤマタノオロチを砂鉄採取の影響で氾濫する斐伊川に、天叢雲剣を製鉄の象徴に、そしてクシナダヒメを砂鉄採取の後に開かれた稲田になぞらえて。
様々に考察される、ヤマタノオロチの正体。
これらが本当に正しいのか、答え合わせをすることはできません。
ただ、怪物の正体が自然災害であれ、文化であれ、かつての人々はそれを生活の一部として大切に語り継ぎ、千年以上も後の私たちに残したということは紛れもない事実です。
人々はきっと、様々な想いと教訓を物語に込め、脈々と伝えてきたのでしょう。
日本書紀には、ヤマタノオロチ伝説と同様に、様々な姿をした怪物たちが登場します。
1600年前に存在したといわれる異形の鬼神、“両面宿儺”もその一つ。
記録の内容とかけ離れた、飛騨の地に残る伝承。
両面宿儺は、人々を苦しめる怪物か?
はたまた、人々を救う英雄か?
そのお話は、こちらの記事でご紹介していますので、興味のあるからはぜひチェックしてみてくださいね。