日本の歴史を覆す!謎に包まれた古文書5選

国の重要な書物に綴られる
日本古代の歴史。

日本書紀古事記に代表される
正式な歴史書の数々は、
考古学や歴史学の分野を知るには欠かせない貴重な資料です。

その一方で、
古代日本の歴史を記録しながらも
正式な歴史とは認められていない、
非公認の歴史書というものがあります。

古文書と呼ばれるそれらの書物は、
その多くが国の正式な歴史書と
全く異なる内容が記され、
或いは制作時期を偽るなど一部の相違から
一般に偽書とされる一方で、
人々はそれを大切に保管し、守り、
書き写すことで、後世へと語り継いできました。

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、日本の歴史を覆すかもしれない
謎に包まれた5つの古文書
をご紹介します。

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<カタカムナ文献>

日本の古代文明の記録を
神代文字によって綴ったとされる
カタカムナ文献”。

その古文書の発見は、
1949年の出来事でした。

当時、電気技術者であった
楢崎皐月(ならさきこうげつは、
兵庫県神戸市の六甲山系の金鳥山付近で
電気の測定研究を行なっていました。

ある時、そこに
猟師の格好をした一人の男が訪れました。

平十字(ひらとうじ)と名乗るその男は、
「猟に影響が出ているため、
楢崎の設置した機器を撤去してほしい」と
苦情を入れます。

楢崎がすぐに機材を撤去すると
数日後、再び平十字が現れ、
御礼にと 古びた巻物を見せました。

平十字は、自身の父が、実在不明のカタカムナ神社の宮司であると言い、
巻物は、その神社の御神体だったのです。

巻物には、渦巻き状に
難解な独自の図形文字が並んでいました。

楢崎はこれを書き写し、長い歳月をかけ、
これらの文字を解読したといいます。

カタカムナ文献”と名付けられた
この文書は、偽書とされていますが、
楢崎によると、かつて六甲山の地に栄えた
超古代文明の記録
であり、
日本古来の神々の物語や、製鉄方法
稲作農業医学哲学に至るまで
多岐にわたる高度な内容が様々書かれている、とされています。

<ホツマツタヱ(秀真伝)>

伝承に伝わる
第10代崇神天皇の治めた時代。

大田田根子(おおたたねこ)が編んだと伝わる“ホツマツタエ”は、
正式な歴史書」と題された古文書です。

その内容はすべて五七調、
ヲシテ文字」なる神代文字で綴られ、
全篇は40巻にもわたるとされています。

ホツマツタエは大田田根子から
宮中へと献上されたのち、
大田田根子の子孫にあたる大三輪(おおみわ)一族がこれを持ち出し、
近江へと移動。

以降、滋賀県にある三尾神社で
大切に保管していたとされています。

再びホツマツタエが世に現れたのは、
江戸時代、1775年のことでした。

井保勇之進という名の人物が
神代文字で書かれたホツマツタエを訳し、
宮中へ献上しようとしたのです。

写本は複数現存し、そこには
天地ができた世界の始まり〜神代の時代、
そして、初代神武天皇〜第12代景行天皇までの時代の歴史や文化、慣習などが
描かれています。

<竹内文書>

竹内家に代々伝わるとされる
竹内文書(たけうちもんじょ)”。

神代文字で書かれた文書と、
それを写した写本、そのほか文字の刻印のある石や剣などを総じて
竹内文書とされています。

その内容は、実に3176億年という
遠い昔の出来事、天地創造から始まります。

全宇宙は、天地身一大神(あめつちまひとつのおおかみ)によって作られ、
約2000億年前に、日本で生まれた
神の子たちが世界中に散らばって
世界の各人種となったというものです。

竹内文書が世に広まったのは、
1910年のことでした。

竹内家の養子に入った巨麿(きよまろ)という人物が、
竹内家に代々秘蔵していたものとして
“竹内文書”を公開したのです。

巨麿は、竹内文書は平群真鳥(へぐりのまとり)によって翻訳・書き写され、
写本制作の命を下したのは
第25代武烈天皇であるとしました。

平群真鳥とは、
日本書紀に登場する人物で、
天皇4代にわたり大臣を務めたと伝えられています。

真鳥の祖父は武内宿禰(たけのうちのすくね)といい、
300歳を優に超え、5代に渡り天皇に仕えたと伝わる、名の知れた忠臣です。

竹内家は、そんな彼らの子孫にあたるといわれており、
巨麿はやがて天津教の教祖となって
竹内文書の宣伝と布教を開始しました。

しかし、1936年、
巨麿は不敬罪により逮捕され、
竹内文書も押収されてしまいます。

さらに文書は偽書である可能性が
非常に高いとの鑑定を受け、
近代創作だと批判を浴びました。

1944年、
巨麿は証拠不十分で不起訴となりますが、
押収されていた竹内文書は
その間に空襲で焼失してしまったと言われています。

<宮下文書 / 富士古文献>

山梨県富士吉田市にある、
北東本宮小室浅間神社。

その宮司を代々務める
宮下家に伝わる古文書群“宮下文書”。

またの名を “富士文書”とも呼ばれ、
77代にも渡って秘蔵されてきたと言われています。

宮下文書の原本は、平安時代、
800年頃に起きた富士山の噴火で失われ、
その後、副本から転写されたものも
1661年〜1673年の間に焼けてしまいました。

しかし、その焼け残りの断片を
三輪義熈(みわよしひろ)という人物が復元し、
1921年、文書の概要をまとめた
『神皇記(じんのうき)』を出版しました。

宮下文書には、
日本最古の正史、日本書紀に伝わる
初代神武天皇が現れるよりも遥か以前の、
富士山麓に栄えたとされる王朝などの記録が残されています。

伝承によると、この文書を書き綴ったのは
中国の史書にも登場する
徐福(じょふく)と呼ばれる人物でした。

徐福は、秦の始皇帝の命を受け、
不老不死の仙薬を求めて
蓬萊(ほうらい)山を探し、東の海へと旅立ちます。

一行は中国本土から出航し、
2年余りの歳月をかけ
ついに蓬萊山に辿り着きます。

宮下文書によると、
その蓬萊山こそ、「不死の山」、
霊峰として信仰される“富士山”でした。

徐福とその一行は
その後、富士山近郊に住み、
文化や技術を伝えるとともに
そこにあった伝承などを漢文に書き直しました。

これが宮下文書の原本になったと言われています。

徐福が、航海の末、
日本に上陸したという言い伝えは、
日本各地に残っています。

宮下文書は一般には偽書とされますが、
それによると、
初代神武天皇が即位する以前にも
51代2000年にわたり続いた
ウガヤフジアワスノクニノヨ(宇家潤不二合須国世)”と呼ばれる王朝が存在したとされ、
この王朝は竹内文書にも
アエズチョウ(不合朝)”という名で登場します。

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<九鬼文書(くかみもんじょ)>

兵庫県高砂市と加古川市の境に位置する、
高御位山(たかみくらやま)。

その山頂にある高御位神社の宮司を
代々務めてきたのが、九鬼(くき)家です。

九鬼家は、
かつては紀伊熊野地方の豪族であり、
戦国時代には瀬戸内海を活動拠点とした
最強の“九鬼水軍”の長でもありました。

長らく日本の歴史に名を残し
力を持っていた九鬼家には、
昔から「秘伝の史書が伝わる」という噂がありました。

その文書こそ、“九鬼文書(くかみもんじょ)”。

九鬼家の先祖・天児屋命(あまのこやねのみこと)の時代に書かれた
神代文字の原本と、
飛鳥時代の公卿・藤原不比等が訳し、
書き写したとされる写本です。

1941年、その内容がついに明らかになります。

三浦一郎(みうらいちろう)という人物が
秘蔵文書の閲覧を許され、
九鬼文書の研究』という本に
その内容をまとめたのです。

それによると、
九鬼家に伝わる九鬼文書は
全部で30巻あり、そのうちの3巻には
初代神武天皇以前の天皇家の歴史や、
春日文字」と呼ばれる神代文字についてが記されていると言います。

一般に偽書とされる九鬼文書ですが、
竹内文書や宮下文書に共通して登場した
ウガヤ・フキアエズ朝に関する記述も確認されています。

九鬼文書の原本は
1945年の空襲により消失し、
残っているのは写本のみとなります。

日本各地に散らばる
様々な形の歴史のかけら。

その真偽は不明ですが、
遥か古代日本の文明の存在を
期待してしまいますね!

これまでに知られる古文書の他にも、
大きな秘密を抱えた歴史書が
今でもどこかに身を潜め、
隠し守られているかもしれません。

さて、各地にひっそりと隠れているのは
歴史的な文化財だけではありません。

世界中には、
歴史的な財宝も眠っているのです。

かつて存在し、意図的に隠された
巨万の財宝の数々。

未だ見つからない、
世界に眠る伝説の財宝7選については、
こちらの記事でご紹介していますので
気になる方はぜひチェックしてみてくださいね!

→ 『世界に眠る未発見の大秘宝!伝説の財宝7選

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