日本を震撼させた!最恐最悪の大怨霊6選
怨霊。
それは、かつてこの世に生きた
人の成れの果て。
彼らは人に恨みを抱き、
人に祟りをもたらす。
「災いよ、どうか鎮まりたまえ。」
既に人でなくなった怨霊たちを前にしては
いかな言葉も届かず。
さて、どうして事態を収めよう。
こんにちは。えむちゃんです。
今回は、かつて日本中を恐怖に陥れた
六人の大怨霊をご紹介します。
菅原道真 / 845年-903年
平安時代に活躍した
菅原道真(845-903年)。
数多の怨霊の中でも特に強い力を持つ、
日本三大怨霊の一人です。
道真は生前、第59代 宇多天皇や
第60代 醍醐天皇の忠臣として仕え、
右大臣にまで上り詰めた優秀な人物でした。
ところが、901年、
左大臣・藤原時平の策略により、
謀反を企てたという無実の罪を着せられ、
九州の太宰府に左遷されたうえ、
4人の子供たちも島流しにされてしまいます。(昌泰の変 / 901年)
衣食住もままならい生活の中で
やがて道真は病に冒され、
2年後の903年に亡くなりました。
彼の死後、
様々な災いが起こり始めます。
翌904年、各地で干ばつが発生し、
疫病が流行。
その数年後の909年、
道真を陥れた藤原時平が
39歳の若さで亡くなると、
913年、道真失脚の首謀者の一人、
後に代わるように右大臣の座に就いた
源光(みなもとのひかる)も
狩りの最中に溺死します。
さらに、その後も
道真に太宰府左遷を言い渡した
醍醐天皇の子供や孫たちも、
次々と病死してしまいます。
これを道真の祟りだとして恐れた人々は
怨念を鎮めようとしますが、
930年、続け様に天皇の御殿である
清涼殿(せいりょうでん)に雷が直撃し、
左遷に関わった複数人が死亡します。
(清涼殿落雷事件)
この惨劇を目の当たりにした
醍醐天皇もついには体調を崩し、
3ヶ月後にそのまま亡くなってしまいました。
この落雷事件をきっかけに
「道真が雷神になった」という噂が流れ、
やがて道真を祀るため、
北野天満宮が建立されることとなりました。
平将門 / 903年-940年
菅原道真の怨念が
西日本を中心に猛威を奮っていた頃、
東日本では、
第50代 桓武天皇の血を引く
関東の豪族・平将門(たいらのまさかど)が勢力を伸ばしていました。
将門はやがて
自らを“新皇(しんのう)”と名乗り、
関東の独立を図った
“平将門の乱”を起こしますが、
最後は、
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)と
平貞盛(たいらのさだもり)らによって
討たれてしまいます。
将門は死後、
日本三大怨霊の一人に数えられる
強力な怨霊になったとされ、
彼にまつわる伝説は数多く残されています。
その一つに、このようなものがあります。
将門が討たれると、
彼の首は平安京(京都)に運ばれて
晒し首となった。
しかし、幾月経っても首は腐らない。
力強く見開いた目は生者そのもの。
口を噛み締め、
まるで歯軋りしているようだった。
夜になれば首は喋り出し、
その声は町中に響き渡った。
さらに別の文献『御府内備考』によると、
将門の首塚を築いた際には
天変地異が相次ぎ、
その祟りは現代に至るまで続いている
とされています。
京都の地に晒された将門の首が
故郷・関東まで飛んで帰ってきた
と言われることから、
東京都の大手町に現存する“将門塚”。
1923年の関東大震災ののち、
大蔵省の仮庁舎を建てようと
将門塚を壊した際、
関わった人物が相次いで死亡。
その後も移転が計画されるたびに
相次いで事故が発生するなど、
祟りを思わせるような出来事の連続に
現在でも粛々と慰霊祭が執り行われています。
崇徳天皇 / 1119年-1164年
鳥羽天皇の第一皇子、
第75代 崇徳天皇(1119年-1164年)。
平安時代の末期、1156年に起きた
保元(ほうげん)の乱で
第77代 後白河天皇に敗れ、
讃岐国へと流れさてしまいます。
保元の乱とは、
天皇から上皇となった兄・崇徳上皇と
弟・後白河天皇による権力争いです。
この戦いにより、朝廷は二つに分裂し、
貴族や武士を巻き込んだ争いが勃発したのです。
島流しとなった崇徳上皇は
二度と京の地へ戻ることはできず、
8年後、46歳でこの世を去りました。
失意の中に没した崇徳上皇は
日本三大怨霊の一人となり、
様々な伝説を残します。
保元の乱の顛末をまとめた『保元物語』。
そこには、このように記されています。
讃岐国に流された崇徳上皇は、
来世では報われるようにと
五部にわたる大乗経の写本を作り、
それを京の寺に収めてほしいと
朝廷に差し出した。
しかし、写本は、
呪詛が込められていると疑われ
送り返されてしまった。
激しく怒った崇徳上皇は
自らの舌を噛みちぎり
その血で写本の最後にこう記した。
「地獄道・餓鬼道・畜生道に身を投げ、
我は日本の大魔縁になろう」
こうして崇徳上皇は
亡くなるまでの間、爪や髪を伸ばし続け、
夜叉のような姿となり、
やがては天狗となった。
彼の死後、
朝廷では天皇家の人々が相次いで死亡し、
後白河天皇の周辺でも、彼の側近など
近しい人物が立て続けに亡くなりました。
さらには大火災の発生、
陰謀による事件も次々と起こり、
社会は急激に不安定になりました。
後白河天皇は
これを崇徳上皇の怨念だと恐れ、
鎮魂のため、讃岐国に島流しされて以降の
崇徳上皇の院号「讃岐院」を
元の「崇徳院」に改め、
また神社や祠を建立し、国をあげての供養を行いました。
井上内親王 / 717年-775年
第45代聖武天皇の第一皇女にして、
のちの第49代光仁天皇の皇后となった
井上内親王(いのえないしんのう)(717〜775年)。
772年、彼女は夫・光仁天皇を
呪詛したとして皇后の位を廃され、
二人の間に生まれた子、
他戸親王(おさべしんのう)も
皇太子から降ろされてしまいます。
翌773年、光仁天皇の姉・難波内親王(なにわないしんのう)が亡くなると、
今度は井上内親王と他戸親王、
二人の呪詛による殺害だと嫌疑がかかり、
母子ともども庶民に落とされ、
幽閉されることとなります。
そして、その2年後、
二人は同じ日に不自然な死を遂げるのです。
彼らの死後、二人の怨念によって
起こったとされる天災の数々・・・
鎌倉時代初期(1195年頃)に成立した
歴史物語・『水鏡(みずかがみ)』には
このように綴られています。
幽閉され、命を落とした井上内親王は
自らの体を龍へと変えた。
その後、平安京では
空から土や瓦、石などが
二十日間にわたり降り注いだ。
干ばつが冬に起き、
川の水が枯れ果てた。
そうして、母子に罪を被せた元凶、
公卿・藤原百川の夢に
毎夜現れては、数百の兵士をつれて
彼の命を奪おうとした。
777年、夫・光仁天皇は
二人の怨念を鎮めるため、墓を改めた。
しかし、井上内親王の怨みは収まらず、
ある夜、百川は突如病死した。
その後、二人の怨念は
名誉回復のために皇后の位を追号し、
寺と神社を建立したことで鎮まったといいます。
平知盛 / 1152年-1185年
平安時代末期の平家一門の武将・
平知盛(たいらのとももり)。
平清盛の四男にして、武勇に優れ、
1180年から5年に亘り続いた
源平合戦(治承・寿永の乱)において活躍した
平家を代表する人物の一人です。
1184年の一ノ谷の戦いでは、
源義経の奇襲に敗れ、屋島へと逃れます。
翌年2月の屋島の戦いでも
再び義経の急襲を受け、下関へと逃げ延びます。
そして同年3月、
壇ノ浦の戦いで敗れた知盛は、
まだ幼い第81代 安徳天皇、
平家一門の女性たちの入水を見届けた後、
自らも海に沈みました。
この壮絶な最期に、
平知盛と平家一門は怨霊となったといわれています。
文献に残る知盛の伝説は
このようなものです。
平家一門を壇ノ浦で滅ぼした源義経は
そののち、兄・頼朝と不仲になり
兄を討つことを決めた。
義経が弁慶と共に船に乗り
西の国へ向かう途中、
かつて平家を打ち破った
一ノ谷の戦場の沖合で
遠くの山の奥から突如として
真っ黒な雲が湧き上がり
それは見る間に嵐となった。
船は高波に襲われ、
そのうち遠くの彼方より
平知盛と平家一門の怨霊が浮かび上がった。
海に沈めようと襲いかかる知盛の怨霊に
義経は刀を抜き応戦し
弁慶が神仏の加護を祈ると
怨霊らは次第に弱まり、
やがて波にさらわれ 消えてしまった。
後鳥羽上皇 / 1180年-1239年
壇ノ浦の戦いの際、
第81代 安徳天皇は、歴代天皇が受け継ぐ
三種の神器とともに海に沈みました。
そのうち宝剣だけが海底から回収できず、
次期後鳥羽天皇は神器の継承なしに
わずか4歳で天皇の座に即位します。
鳥羽天皇は、19歳で上皇となると、
その後、三代23年にわたり、院政を行いました。
1221年、承久の乱にて
後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の政権を握る
北条義時(ほうじょうよしとき)に対し
討伐の兵を挙げるも、敗北し隠岐へと流されてしまいます。
そして1239年、60歳で逝去。
隠岐の地で、無念の死を遂げた
後鳥羽上皇は怨霊となるのです。
鎌倉時代の公卿、
平経高(たいらのつねたか)の記した
日記『平戸記(へいこき)』によれば、
承久の乱を鎮圧した武将・北条時房や
鎌倉幕府の有力御家人・三浦義村らの死が
後鳥羽院崩御の同年から1年後にかけて
続いたのは、怨霊による祟りのためとされています。
後鳥羽上皇は生前、直筆の手紙に
このような言葉を残しています。
「我は法華経に導かれ、じきに世を去る。
ただし百千に一、
この世の妄念にかられて
魔縁となることがあるならば
この世に災いをもたらすであろう。
千万に一、
我が子孫が世を統治することがあるならば
それは悉く我によるものである。
そうなれば、我が菩提を弔うべし。」
怨霊と成り果てた彼らの
哀しき運命。
しかし、彼らの存在は紙一重で
怨霊であると同時に、神様にもなりえるのです。
私たちは彼らの生前の叫びを知り、
決して忘れず、崇敬し、
後世に語り継いでいくことで
彼らの魂は慰められるのでしょう。
さて、日本の国に伝わる
世にも恐ろしい伝説には、
怨霊のほかにも、様々な奇怪な存在が登場します。
今の時代にも耳に親しい、
妖怪もその一つ。
禍々しい声。
おどろおどろしい姿。
なかでも、“大妖怪”と呼ばれる
名のある妖怪たちは、
それは恐ろしい悪行の数々で
人々を震え上がらせていました。
日本史上最凶と謳われる八体の大妖怪については、
こちらの記事でご紹介していますので
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