【後編】伝説の大海賊ヘンリー・モーガンの壮絶な人生!海賊の楽園ポート・ロイヤルの秘密

ジャマイカ島の海底に眠る
海賊の楽園“ポート・ロイヤル”。

1692年の大地震から
約300年の時を経て、幻の都は
ついに発見されました。

珊瑚に覆われた店や寺院、大砲の数々。

2000個ものガラス容器に、
6500個もの素焼きパイプ。

取り残された大量のコインや陶器は
かつての繁栄を物語ります。

分厚い泥に守られて、
街はその形を美しくとどめていました。

まるで、在りし日の英雄の帰還を
待ち望むかのように。

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、巨大な海賊の楽園を一手に治めた
伝説の大海賊ヘンリー・モーガンの壮絶な人生をご紹介します。

最も豊かで、最も酷い街
“ポートロイヤル”の始まりと
終わりの物語は、
前編でご紹介しています。

ぜひ先にチェックしてみてくださいね!

→ 『【前編】海底に消えた幻の都!海賊の楽園ポート・ロイヤルの秘密

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海に沈んだ幻の都ポート・ロイヤル

水深1〜20m、面積約14㎡。

東京ドームの3倍にあたる
その広大な遺跡が、
アメリカのトレジャーハンターによって
発見されると、
ジャマイカ政府の支援のもと
1981年から約10年に渡り、調査が行われました。

次々と見つかる出土品の数々に、
そこがポート・ロイヤルだろうと
結論づけられるまで、時間は要しませんでした。

そして、遺跡が
全体のたった5%にも及ばない
ごく一部であることが判明するのです。

そんな巨大な海賊たちの街を
当時、圧倒的な力によって治めていた
一人の男がいました。

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ヘンリー・モーガンの生涯

数多くの伝説を残す
ポート・ロイヤルの英雄ヘンリー・モーガン

これは、かつてその名を馳せた大海賊の
栄光と没落の物語。

1635年、イギリスのウェールズで
生まれたとされるモーガンは
生年月日や幼少期の一切が謎に包まれた
素性の知れない人物です。

15歳の頃、
年季奉公に出されたモーガンは、
西インド諸島のバルバドス島に渡り
農園で5年の間働きました。

体格を生かした働きぶりを認められ、
若いうちから奴隷や奉公人の監督を任されます。

そして20歳でジャマイカ島に移動し、
海賊船に乗り込みました。

彼が海賊の世界に身を投じてから数年間の
詳細な記録は残されていませんが、
仲間と金を集めながら活動し、
やがて船長にまで上り詰めたとされています。

グラナダ遠征

スペイン植民地を荒らしまわっていた
モーガンは、ある日、
グラナダという街の噂を耳にしました。

ニカラグアの南西に位置する
大都市グラナダには、
周辺国の産品が集積しているらしいーー。

次なるターゲットを見つけたモーガンは
さっそく遠征に向かいます。

その行動力はすさまじく、
全長190kmにも及ぶサン・フアン川を
1週間以上かけてカヌーで上り、
さらに5日間かけてニカラグア湖を北上

そして月夜に身を隠しながら街を襲撃し、
カヌーに乗りきらないほどの財宝を奪って
カリブ海へと戻ったのです。

その遠征の成功は
海賊モーガンの名を広く轟かせました。

キューバ遠征

計画と奇襲を得意としたモーガンは
一方で、非常事態に対応する柔軟性もありました。

ある時、
キューバ島の侵攻を企てていた最中、
スペイン人の捕虜によって情報が露呈し、
街への道を封鎖されるという事態が発生しました。

しかし、モーガンは計画を続行します。

スペイン側の兵士によって
守りを固められた
プエルト・デル・プリンシペの街に
深い森の中から近づいて、
ついに彼らに気づかれることなく
街に到達し、占拠を成功させた
のです。

※プエルト・デル・プリンシペ(Santa Maria del Puerto del Principe、現カマグエイ)の街

ポルトベロ攻略(1668年)

大海賊モーガンの手にかかれば
“難攻不落の砦”さえも脆い。

パナマの港町ポルトベロは、
スペイン-南アメリカ間の
交易物資の積み替え港で、
南アメリカで集めた銀などを積み出すための重要な港町でした。

モーガンはポルトベロ襲撃を
わずか460人の海賊で遂行します。

捕虜にした聖職者たちを最前線に立たせて
砦の攻略を図り、激しい攻防の末、
ポルトベロの占拠に成功。

残虐の限りを尽くして
街の財産を根こそぎ奪い去りました。

オックスフォード号事件

モーガンはまた
その実力に見合うほどの強運の持ち主でした。

ポルトベロへの侵攻から
程なくしたある日、
多くの海賊たちが一つの島に集結し、
艦船オックスフォード号の船上で
コロンビアのカルタヘナを
攻略する計画が立てられました。

会議の後に開かれた宴の最中に
事件は起こります。

酒に酔った海賊の一人が発砲し、
その火花が火薬に引火して
船ごと大爆発したのです。

一瞬で命を落とす海賊たち。

絶望的な状況下にありながら、
モーガンはたった軽傷のみという
奇跡的な生還を果たしました。

マラカイボ遠征

この事件により
カルタヘナの攻略を諦めたモーガンは
狙いをベネズエラのマラカイボに変更し、
侵攻ののち、大量の宝を奪って
街の湖を後にしました。

ところが、外海に待ち構えていたのは、
強力な3隻のスペイン艦船。

圧倒的な相手を前にしたモーガンは
投降せずに戦うことを決定します。

そして、火薬を満載した船に導線をつけ
スペイン艦に放つという大胆な作戦で、
3隻のうち2隻を海に沈めるという
驚くべき武功を挙げた
のでした。

パナマ攻略(1671年)

1671年、ついにモーガンは
海賊史上最大の遠征、パナマ攻略を決行します。

豊かで美しいパナマの街は、
当時、スペインにとって
南米大陸への進出の拠点として
非常に重要な都市でした。

37隻の船、1846人の海賊を引き連れた
モーガンは、パナマを目指し
チャグレス川を登りました。

守備兵300人の9割を瞬時に打ち倒し、
順調に河口の砦を突破。

続いてパナマ市へと歩みを進めますが、
ここで大変な誤算が発覚します。

どの村の住人も
食料を持って逃げていたことで
道中、食料の現地調達ができなかったのです。

酷い飢えに苦しみながら
9日もの間を耐え忍び、
なんとかパナマの近郊に到達した矢先、
眼前に立ちはだかったのは
数も装備も上回るスペイン軍でした。

圧倒的に不利な状況下でも
モーガンは諦めず、火花散る激戦を経て、
とうとう勝利を収めます。

ところが、肝心のパナマは
人も宝も、もぬけの殻。

海賊たちは
怒りのままに街を破壊し尽くし、
20日間に渡り金目の物を物色して
大量の戦利品を持ち帰りました。

ナイトの称号

さて、数々の遠征で
莫大な金を得たモーガンは、
ジャマイカ島に次々と農場を買い足しました。

気付けば街の大地主、
名士として名を挙げるようになり、

また、31歳の頃には
ジャマイカ島の総督代理と
貴族との間に生まれた子女と結婚して、
名実ともに島の権力者となります。

一世一代のパナマ攻略も成功させ、
全てが順風満帆と思われていました。

とある一報が届く、その時までは。

パナマ攻略の前年、1670年。

祖国イギリスとスペインの間に
和平条約(マドリッド条約)が締結された
という知らせが
カリブ海へと届く頃には時遅く、
モーガンのパナマ侵攻はすれ違う形で
重大な条約違反となったのです。

スペイン政府はこれに激怒し、
イギリス政府は関係改善のため
モーガンと当時のジャマイカ総督
トマス・モディフォードを逮捕しました。

重罪に問われると思われた
二人の処遇。

しかしこれはあくまで、
イギリス政府によるパフォーマンスでした。

スペインに対し、
長年の恨みを募らせていたイギリス国民は
モーガンとモディフォードを英雄視したのでした。

結局、イギリス政府は二人を釈放し、
そればかりかモーガンは
当時のイギリス国王・チャールズ2世より
ナイトの称号を与えられ、
さらに、ジャマイカ副総督にまで任命されることとなりました。

ヘンリー・モーガンの最期

海賊たちをまとめあげ、
荒くれ者から国の英雄にまで上り詰めた男、ヘンリー・モーガン

伝説の大海賊のその最期は、
ひどく寂しいものでした。

スペインの力が弱まり、イギリスが
カリブ海の支配権を握るようになると、
海賊たちの時代も終わりを迎えます。

イギリスの海賊たちは一転、
スペインの船を襲うことを禁じられ、
ジャマイカ島代理総督であったモーガンは
さらに追い討ちをかけるように
海賊の楽園ポート・ロイヤルから
海賊船を締め出します。

かつての仲間たちを取り締まり、
逆らう者を次々と粛清したモーガンは
裏切りの海賊”と呼ばれ、
カリブの海賊たちは彼の元から去っていきました。

その後、新たにジャマイカ島総督となった
トーマス・リンチという人物によって
モーガンの悪行の数々が暴かれると、
英雄モーガンは全ての役職を剥奪されてしまいます。

仲間も地位も、名誉も失い
躍起になって酒に溺れる日々。

彼の体は次第に病に蝕まれ、
1688年、53歳で大海賊は
あっけなくこの世を去りました。

彼の亡骸は、荘厳な葬儀のもと
ポート・ロイヤルの砂浜に埋葬され、
一人の大海賊の人生は幕を閉じました。

そして1692年、
運命の大地震を迎えると、
街と、財宝と、2000人の住民とともに
モーガンの墓は海底へと沈んでいったのです。

かつてその悪名を轟かせた
海賊たちの楽園ポート・ロイヤル

華やかな喧騒は
多くの歴史とともに過ぎ去り、
今では静寂の中に眠っています。

海底にはまだ見ぬ世界と
秘密がまだまだ眠っているのかもしれません。

そう、私たちの住むこの国、
日本の海底にも同様に。

与那国島の海に沈んだ古代遺跡の謎

都市のようなその構造は、
自然が生み出した奇跡の産物か?

はたまた、古代文明の痕跡か?

そのお話はこちらでご紹介していますので
気になる方は、ぜひチェックしてみてくださいね!

→ 『与那国島の海底遺跡!日本の海底に存在する古代文明の謎!

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