日本に実在する伝説の武具!最強の特級呪具6選!

日本の歴史に名を連ねる
呪力を秘めし刀剣の数々。

呪具と呼ばれるそれらは
恐ろしげな妖気を纏う。

取り巻く数多の伝説は
今の時代も昔にも
人を震わせ、惹きつける。

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、日本国に眠る呪われの刀剣!
実在する特級呪具6選
をご紹介します。

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天の逆鉾(天沼矛)

天孫降臨の地、
高千穂峰の山頂に突き立てられるは
天の逆鉾(あまのさかほこ)。

日本神話において、
イザナギとイザナミが日本列島を作る際、
混沌と大地に突き刺し、
かき混ぜたとされる矛です。

ある伝承によると、
天照大神の孫、神武天皇の曽祖父にあたる
農業神ニニギノミコトが地上を治めるべく
天から宮崎の高千穂の地に降臨し、

そして二度と
矛が振るわれることないようにと、
世の安寧を祈願して
天の逆鉾を高千穂峰の山頂に突き立てたとされています。

かつて、かの坂本龍馬が
妻のお龍と高千穂峰を訪れた際には、
龍馬は地に刺さった天の逆鉾を引き抜き、
そのことを姉に宛てた手紙に書き残しています。

後に天の逆鉾は
噴火によって折れてしまい、
山頂にはレプリカが置かれ、
本物の柄は地中に残し、
刃の部分は人から人へと渡って
現在は行方がわからなくなっています。

実際のところ、高千穂峰の天の逆鉾が
いつ頃からあったのかは
わかっていませんが、
奈良時代には既に存在していただろう
とされています。

ほかにも天の逆鉾の所在については
伊勢神宮など、諸説言われています。

妖刀 村正

「妖しい魅力のある刀」、妖刀村正

村正とは、
室町時代から江戸時代初期に活躍した
刀鍛冶の代々の名であり、
また、彼らが作った日本刀の総称です。

伊勢国桑名郡で名を挙げた
一代目・村正に始まり、
桑名の地で少なくとも六代以上に渡り
受け継がれることとなりました。

彼らは一般的な日本刀に限らず
小刀や槍など幅広く制作し、
多くの刀剣を世に出しました。

村正の特徴は、鋭い切れ味と
表裏そろった大きく波打つ独特の刃文です。

戦国時代には、“天下の業物”と評され
多くの武将たちが実践刀として使用しました。

ところがその後、村正は妖刀として
人々に恐れられることとなります。

戦国大名、徳川家康の周辺で
次々と起きた死傷の数々。

祖父・松平清康が斬られた刀。

父・松平広忠が刺された脇差。

嫡男・信康の切腹の介錯に使われた刀。

強敵・真田幸村の愛刀。

そして関ヶ原の戦いで
家康本人が負傷した槍。

それらの凶器は、悉く村正でした。

このため、徳川家に仇なす
倒幕の志士たちの中には
村正を好んで使う者もおり、
有名な人物としては、
西郷隆盛などが愛用したと言われています。

しかし、村正を持てば祟りあり。

一度握れば、非業な死が待ち構えるのです。

西郷の最期は、1877年の西南戦争。

5万の政府軍を相手に
たった372人という絶望的な戦力で抵抗しました。

追い詰められ、集団自決を決行しようと
かろうじて守った堡塁に向かうも、
途中銃撃に倒れ、到達することも叶わず、
仲間の一人に介錯を命じて
その場で首を落としたのでした。

一度抜けば、血を見ずには治らない・・・

武士の多くを魅了した妖刀村正は
今も日本中に眠っています。

鬼丸国綱

鎌倉時代中期。

刀鍛冶・栗田口国綱による、
鬼丸国綱(おにまるくにつな)。

数ある日本刀の中でも特に名刀と言われる
天下五剣”の一つに数えられる刀です。

室町時代に成立した
軍事物語『太平記(たいへいき)』には、
刀にまつわるこのような伝説が記されています。

鎌倉幕府の初代執権、北条時政
夢の中に現れる小鬼に
毎夜苦しめられていました。

するとある晩、
“太刀国綱”と名乗る老人が夢に現れ、

私は粟田口国綱の太刀の化身である。

しかし汚れた人の手に握られて
錆びついたこの身が鞘から抜けんのだ。

妖怪を退治したくば、この錆を拭い去ってくれ。

と告げて、消え去りました。

時政はさっそく国綱を手入れし、
抜き身のまま部屋に立てかけておきました。

すると刀は自ずと倒れ、
火鉢の脚に細工された鬼の首を切り落としたのです。

以来、時政を苦しめた小鬼は
夢に現れなくなり、
その刀は「鬼丸」と呼ばれるようになりました。

現在は、皇室の私有財産として
宮内庁が管理し、大切に保管されています。

髭切

源氏に伝わる鬼討ちの名刀、
髭切(ひげきり)。

時は平安。

源頼光の父・源満仲(みつなか)は、
筑前国に住む唐国の鉄細工師に
太刀を作らせました。

刃渡り二尺七寸、およそ81cm。

試し切りで罪人の髭まで切れたことから
「髭切」と名付けられました。

髭切は持ち主の手を転々と渡りました。

源頼光の部下で、頼光四天王(らいこうしてんのう)の一人である
渡辺綱(わたなべのつな)のもとでは、
京都の一条戻橋で
最強の鬼“酒呑童子”の仲間、
茨木童子を斬ったとされています。

平安時代末期になると、
髭切は夜毎に獅子のように吠え猛り、
やがて「獅子の子」と呼ばれるようになりました。

さらに当時の所有者、源為義の持つ
もう一本の刀を切り落としたことで、
髭切は「友切」へと改名されることとなります。

1156年、保元の乱では
為義は崇徳上皇側につき戦うも敗北。

後白河天皇側についた息子、
源義朝(よしとも)によって処刑され、
友切は義朝の元へと渡りました。

後に義朝は平氏との戦いに敗れ、
落武者同然となります。

その時、義朝は
八幡大菩薩のお告げを聞くのです。

刀の名を戻せ。
さすれば力は蘇る。

こうして名を「髭切」に戻すと、
髭切は義朝の息子・頼朝を助け、
源平合戦において源氏を勝利に導いたのでした。

鎌倉幕府の滅亡後は、
新田義貞や最上氏らの手に渡り、
現在は北野天満宮に保管されています。

岩融

平安時代最強の僧兵、
武蔵坊弁慶が愛用した
巨大な薙刀・岩融(いわとおし)。

通常の薙刀の刃渡り75cm-90cmに対し、
岩融は三尺五寸、およそ105cmと大きく
常人では到底扱うことができない代物でした。

また、軍記物語『義経記』に登場する
岩融は、薙刀ではなく、
160cm(四尺二寸)ほどもある
巨大な太刀として描かれています。

岩融はその名の通り、
岩をも断ち切るほどの切れ味」を持つ名刀です。

1488年頃に成立した刀剣書
『長享銘尽(ちょうきょうめいづくし)』によると、

岩融を作ったのは、天下五剣の一振、
三日月宗近(みかづきむねちか)を作った
名匠・三条宗近(さんじょうむねちか)とされています。

平安時代末期。

紀伊国に生まれた弁慶は、
生まれた時から3歳児ほどの大きさで、
髪も歯も生え揃っていたと言います。

“鬼の子”と恐れた父は殺そうとしますが、
母の必死の懇願により、命を許され、
以降は京都の叔母の元で育てられました。

その後、比叡山の僧に入れられますが
あまりの乱暴さに追い出され、
四国や播磨国を点々とし、

やがて京都に戻った弁慶は
願掛けのため刀狩りを始めます。

目標の千本目に届く目前、
あと一本のところで
牛若丸、後の源義経に敗れ、
以降は義経の忠臣として仕えたとされています。

弁慶が実在したかどうかは
実のところ不明ですが、
彼にまつわる伝承は、日本各地に存在しています。

そして名刀・岩融は、
現存はしていないものの、
愛媛県今治市の大山祇神社には
弁慶が奉納したとされる薙刀が存在し、
国の重要文化財となっています。

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雷切

神をも斬った名刀、雷切(らいきり)。

振るうは、戦国の世の武将・
戸次鑑連(べっきあきつら)。

またの名を、立花道雪

江戸時代初期に書かれた軍事記
『大友興廃記』には、
道雪が雷を斬ったという伝承が記されています。

天文17年、1548年6月5日。

35歳の道雪は、故郷の豊後国にて
炎天下の中、木陰に涼みながら
昼寝をしていました。

すると急な夕立に、
雷が落ちかかりました。

瞬間、道雪は
木に立てかけた刀を手に取り、
雷の中にいた雷神を斬ったといいます。

この時、落雷により道雪は負傷し
左の足を不自由にしますが、それでも
馬に乗り敵陣に突撃するなど
その武功は各地に広まり、
他国の武将にも一目を置かれました。

雷神を斬ったその刀は
柄に鳥の飾りがあったことから
千鳥”と呼ばれ、
一件以来は“雷切”と改名し、
常に傍に置いたのでした。

神聖さと邪悪さを秘めた
呪具の数々。

古く日本の伝説には、
こうした両面の性質を持つ
超越した存在が多く伝わります。

精霊や怨霊、神や妖怪。

時に彼らは人を脅かし、
また時に人を救い導きます。

かつて平安の世に君臨した陰陽師は
式神と呼ばれる鬼神を召喚し使役しました。

それらもまた、
善と悪とを持ちながらも、
主に従い災いを祓うのです。

安倍晴明が使役した
最強の十二天将
については
こちらの記事でご紹介していますので、
ぜひチェックしてみてくださいね!

→ 『日本最強の式神たち!安倍晴明が使役した十二天将!

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