伝説の大海賊!“黒髭”エドワード・ティーチが残した伝説!

1718年11月のある夜明け。

海賊船に突入した62人の海軍は
たった一人の大海賊を前に、足を竦ませた。

まるで地獄から這い出てきたかのような
恐ろしく凶暴な男は、
多勢を前に一切怯むことはなかった。

大柄な体躯、落ち窪んだ目。

そして三つ編みに編み込まれた、
真っ黒な長い髭。

ピストルの発砲を合図に
両者の激しい戦闘が始まった・・・

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、伝説の大海賊、
“黒髭”エドワード・ティーチが残した数々の逸話
をご紹介します。

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時代背景

時は1700年代初頭。

海賊の黄金時代の真っ只中にあった
カリブ海、北米沿岸の海では、
海賊たちが跋扈(ばっこ)し
各国の貿易に多大な影響を及ぼしていました。

彼らによる被害は、日に日に増す一方。

見かねたイギリス政府は、
カリブの海賊たちの取り締まりを
一層強化することを決定しました。

1718年7月、政府は
世界一周を経験した元海賊・
ウッズ・ロジャーズをバハマ諸島に派遣し、初代総督に任命。

当時、バハマ諸島には
200隻以上の海賊船と、数千人にも上る
海賊たちがひしめき合っていました。

ロジャーズは恩赦法を施行し、
こう通告します。

9月までに出頭し、今後一切
海賊行為を辞める者については

恩赦を与える。

出頭しない者は悉く逮捕し、
絞首刑に処す。

これを受け、
処刑を恐れた多くの海賊たちは
次々と海賊業から手を引きました。

しかしそれでもなお、力のある者たちは
ロジャーズの恩赦を嘲笑い、
あいも変わらず傍若無人の限りを尽くすのでした。

そんな中に、かの伝説的な大海賊が一人。

黒髭”の名で知られる
エドワード・ティーチ

あまりに有名な海賊のその名を、
一度は耳にしたことがある人も多いでしょう。

エドワード・ティーチ(1680年頃-1718年)

ところが、知名度に反して
その存在は多くの謎に包まれています。

ティーチの出自は、
1680年頃のイギリス。

手紙を所持していたことなどから
読み書きが出来たであろうとされ、
このことから、ある程度裕福な上流の家に
生まれたのではないかと推測されています。

エドワード・ティーチという名前も
本名であるかどうか定かではありません。

黒髭”という通り名のほか、
エドワード・サッチ”など、
いくつもの名前で記録が残っています。

海賊は活動の際、
本名を伏せることが多いです。

ティーチが上流階級の出だとすれば
なおさら、家の血統を守るために
名を隠したことでしょう。

ティーチが表舞台に登場し始めたのは
1716年頃のことです。

ジャマイカにて、私掠船、すなわち
国家公認で敵国の船を襲うことを許された
海賊船の船乗りなどを経験したのち、

当時有力な海賊船長であった
ベンジャミン・ホーニゴールドの船に乗り、
多くの海賊たちを指揮していたとされます。

そののち独立し、
自らが船長となったティーチは
たった2年の間で、
後世まで語られることとなる
恐ろしい伝説の数々を残すのです。

黒髭が残した伝説の数々!

勢力の急拡大

ホーニゴールド船長から
70人の乗組員と、6門の大砲を積んだ船を
与えられたティーチは、
キューバ沖からアメリカ沿岸を中心に
活動を始め、数々の商船を襲っては、
積荷を強奪しました。

1717年11月には、フランスの大型奴隷船
「ラ・コンコルド号」を拿捕し、
積荷であった莫大な金銀財宝と
奴隷たちを奪うことに成功。

その時の船は大きく頑丈で、
既に14の大砲を乗せており、
気に入ったティーチはさらに
26もの大砲を積んで
黒髭の海賊船”として乗り回しました。

新たな海賊船の名は、
クイーン・アンズ・リベンジ」=「アン女王の復讐号」。

一説には、ティーチが
私掠船の船員として活動した当時、
ヨーロッパ諸国ではスペイン継承戦争が勃発。

なかでも、北米にて
フランスとイギリスが戦った戦争を
イギリス女王の名に因んで、
アン女王戦争”と呼ぶため
ここから名を取ったと考えられています。

その後も次々と船を襲撃し、
ティーチはおよそ1年半の間に
少なくとも20隻の船を拿捕し、
3隻の船と300人以上の海賊たちを従えて
瞬く間に戦力を拡大しました。

恐ろしい風貌

”黒髭”エドワード・ティーチは、
海賊としての圧倒的な強さに加え、
見る者をすくませる
恐ろしい風貌をしていました。

高い背丈に引き締まった体格、
落ち窪んだ目に、長く生やした髪と髭。

髭は何本かの三つ編みに分かれ、
それぞれには色のついたリボンが結ばれていました。

戦いの場では、三つ編の髭の先に
着火した火縄をくくりつけ、
肩がけした弾薬帯に3対のピストルをさして暴れ回り、

その狂気じみた様子には、
勇猛果敢な船乗りたちも震え上がったといいます。

ピストル発砲事件

この逸話からも分かるように
ティーチの気性は非常に荒く、豪胆でした。

彼の凶暴性が垣間見える伝説は
数多く残っています。

ある時、自分の船室で
部下とともに酒を飲んでいたティーチは
おもむろにピストルを引き抜き、
安全装置を外しました。

船長の性格をよく知る部下たちは
急いで部屋から逃げ出しましたが、
部下の一人、イズリアル・ハンズは
そのまま酒を飲み続けていました。

すると、ティーチは突然
ハンズの膝を撃ち抜き、
大声でこう叫んだのです。

時々こういうことをしてやらなくちゃ、
お前らも俺がどういう人間か忘れちまうだろうが。

硫黄を燃やして根比べ

またある時は、部下とともに酒を飲み
酔いが回り始めたティーチは
ふと、このようなことを呟きました。

地獄というのは一体、どんな場所なんだ?

一つ試してみるか。

そしてすぐさま部下を数人連れて
共に船の貨物庫に入ると、
中で硫黄の壺に火をつけて
扉を閉め切ったのです。

硫黄の煙はみるみるうちに充満し、
部下たちは必死に助けを求めました。

やがて扉を開けたティーチは、

地獄に一番耐えたのはこの俺だ

と言って大いに喜び、部下たちに
自慢して回ったというのですから
恐ろしいことです。

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黒髭と海軍の最後の戦い

さて、奔放に暴れ回るティーチは
世界中にその悪名を轟かせ、
ついにイギリス政府は本格的な討伐に乗り出します。

1718年11月21日の夜、イギリス海軍中尉の
ロバート・メイナードは、
62人の兵を引き連れ、停泊するティーチの海賊船を発見しました。

その時のティーチは宴の真っ最中。

海軍の接近には気づいていませんでした。

夜明けとともに突入したメイナードらに
ティーチはピストルを発砲して迎撃し、
船上は血に濡れた乱闘の場と化しました。

やがて双方の大将は刃を交え、
ついにメイナードの剣を折ったティーチは
とどめを刺そうとしますが、

その瞬間、海軍の一人による
捨て身の攻撃を食らうのです。

首元に致命傷を負ったティーチは
なおも獣のごとく暴れ回り、死の直前まで
敵への攻撃を決してやめようとはしませんでした。

結局、ティーチは首を切られ、
海賊たちは降伏し、
メイナードは部下の殆どを失いながらも
討伐を果たしたのでした。

ティーチの体は
5発の銃弾と、20以上もの太刀傷を受けていました。

身の滅ぶ最後の時まで血気を失わず、
人を圧倒する覇気を纏った大海賊であり続けたのです。

悪党なれど、人々を惹きつける所以でしょうか。

さて、海賊たちの黄金時代、
彼らには「楽園」と呼ぶ場所がありました。

世界で最も豊かで、最もひどい町
ポート・ロイヤル”。

栄華を極めたその場所も、
今となっては幻の都。

運命の日、街はもろとも
海底深く沈んでしまったのだから。

海賊たちの楽園“ポート・ロイヤル“の秘密については、
こちらの記事でご紹介していますので、
ぜひチェックしてみてくださいね!

→ 『【前編】海底に消えた幻の都!海賊の楽園ポート・ロイヤルの秘密

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