【前編】海を荒らした“最悪の世代”!最強最悪の大海賊9選
かつて一つの時代を風靡し、
現代にもその名の高い、大海賊たち。
時に、未開の土地を目指す探検家。
時に、国家の最前線で戦った英雄。
時に、復讐に燃える残虐な侵略者。
しかし誰もが、各々の強い信念のもと
命をかけて大海原に出た。
こんにちは。えむちゃんです。
今回は、歴史に名を残す
最強最悪・9人の大海賊をご紹介します。
ジョン・ホーキンス(1532年-1595年)
海賊、商人、海軍提督。
様々な顔を持つ狡猾な男、
ジョン・ホーキンス。
口八丁で巧みな交渉手腕を持ち、
数々の恨みを買ったと言われています。
16世紀、エリザベス1世の治世のもと、
イギリスの商人として
西インド諸島へ計3度の航海を行い、
そのうち1度目の航海では
西インド諸島との密貿易に向かいました。
途中、西アフリカのギニアに立ち寄って
三隻の船に300人の奴隷(年季奉公人)を積み込み、
大西洋を横断して
エスパニョーラ島のサント・ドミンゴに到着。
嵐による緊急避難のふりをして港に入り、
スペイン人の総督にこう持ちかけました。
「漂流して食料がなく、購入費も乏しい。
積荷の奴隷を売らせてくれないか」
総督は外国人との貿易を禁止する
本国の命令を知りながら、
奴隷を安くで手に入れられる魅力に惹かれ
交渉を受け入れました。
これにより、ホーキンスは
莫大な利益を得てイギリスへと帰還します。
一方、スペイン王フェリペ2世は怒りを爆発させ、
ホーキンスの密貿易を同盟国イギリスに抗議しました。
ところが、エリザベス一世は
奴隷貿易が莫大な利益を生むことを知り、
ホーキンスを罰するどころか、
二度目の航海を支援するようになりました。
王室の出資を受けた
二度目の航海もまた成功し、
フェリペ2世は大激怒、
イギリスの出資者たちは大いに喜びました。
そして続け様に、ホーキンスは
三度目の航海を敢行したのです。
この時に同行した男こそ
二人目にご紹介する大海賊。
後にホーキンスに代わり
中南米を荒らしまわった
フランシス・ドレークでした。
フランシス・ドレーク(1543年-1596年)
マゼランに続いて
史上二番目の世界一周を達成した
フランシス・ドレークは、
海賊でありながら海軍提督等の役職を持ち
スペインを恐れさせたと同時に
本国イギリスでは英雄視された人物です。
イギリス南西部の
貧しい農民の家に生まれたドレークは、
10歳の頃に小さな船で下働きを開始し、
24歳で従兄弟のホーキンスの船団に航海士として参加。
その傍らで、自らも小型船の船長を務めました。
しかし、1568年のある日、
10隻のホーキンスの艦隊が
メキシコの港に停泊していた際、
5隻のスペイン艦隊に奇襲され
8隻もの船が沈められるという事件が起きました。
ドレークの乗る船は
港の出口近くにあったため
運良く即座に逃れることができました。
ホーキンスも、残った1隻の船に乗り
イギリスへの帰還を果たしますが、
その船に乗った200人の船員のうち、
無事生還できたのは、たった15人でした。
その後ホーキンスは、ドレークを
仲間を見捨てた裏切り者と非難しますが、
大きな被害を出したホーキンスに対し
船と共にほぼ無傷で帰還した
ドレークの評価は
本国イギリスの有力者たちの間で
徐々に高まっていきました。
そのため、ホーキンスは
海賊業から手を引き、
代わってドレークが新大陸へ乗り出すこととなりました。
ドレークは航海を次々と成功させ、
さらに1577年〜1580年にかけての
大規模な航海を行い、マゼランに続く
史上二番目の世界一周を達成。
数々の海賊行為を働き
富を強奪したドレークでしたが、
この歴史的な偉業に、
イギリス王室は彼を大歓迎で迎え
イギリス海軍中将の位と、ナイトの称号を贈り与えます。
王室がドレークを英雄視した背景には
ある思惑が隠されていました。
当時、新大陸で大きな力を持っていたスペイン。
それをどうにか奪おうと考えたイギリス王室は、
「スペインは我々の敵である、
ドレークのようにスペインの富を奪ってしまえ」
と国民を焚き付けたのです。
同時に、国民の不満の矛先を
国外に向けることにも成功しました。
一攫千金を夢見た人々は
スペインの植民地からスペイン本国へと向かう船を狙い、カリブ海に進出。
貧しい生活から抜け出そうと
多くの海賊たちが蔓延るようになるのでした。
失うものがない彼らは、
命知らずで海へと繰り出し、
同じ境遇を持つ者同士で共に暮らし、
彼らが集まるエスパニョーラ島などの街は
やがて繁栄するようになります。
さて、そんな海賊たちの街の中に
一際目立つ男がいました。
フランソワ・ロロノア(1630年-1668年)
カリブ海で残虐の限りを尽くした大海賊、
フランソワ・ロロノア。
最下層の貧しい家庭に生まれ、
年季奉公人として
西インド諸島に渡りますが、
その後脱走し、エスパニョーラ島に移動。
そこで海賊となったロロノアは
短剣を好んで使用し、
その強さと豪胆さで、瞬く間に地位を確立します。
1666年には700人もの海賊を率いて
南米ベネズエラ・マラカイボの街を攻略し、
2週間にわたる略奪のすえ、
莫大な財宝を手に入れました。
ロロノアが特に恐れられた理由は
無情なまでのその残虐性。
例えばマラカイボ攻略の際には、
500人ものスペイン兵を惨殺し、
財産を隠して逃げた住民を捕まえれば
その在処を吐くまで、拷問し続けたのです。
狙った街は壊滅させ、
宝を根こそぎ奪い去る。
しかし、人々を震撼させた大海賊の最期も
また酷いものでした。
ニカラグア沿岸を襲撃した際、
ロロノアは部下からはぐれ、
現地の住民といざこざを起こします。
そこで大勢の人々に捕らえられ、
最後は生きたまま手足を切られた上
火炙りにされ、命を落としたのです。
ウィリアム・キッド(1645年-1701年)
スコットランド生まれの海賊、ウィリアム・キッド。
通称“キャプテン・キッド”。
海賊たちの取り締まりが行われた17世紀の
時代の終わりに活躍した海賊です。
スコットランドで生まれたキッドは
カリブ海の海賊、アメリカの商人、
ニューヨークの名士などの経歴を経たのち
1695年、再び海賊となりました。
私掠免許を取得し、合法的な海賊行為のみを行なっていましたが、
船の食料が尽き、渋々交易国の商船を襲ったことをきっかけに
違法な悪事に手を染めていきます。
ポルトガルの軍艦や、オランダ、
アラブなどの商船を次々と襲撃し、
その悪質な行動は私掠免許を発行した
ロンドンにも報告され、
1700年、ボストンへ寄港した際に
捕らえられてしまいます。
キッドが海賊行為を行なっていたのは
わずか5年間の出来事ですが、
その間にもイギリスの権力者たちの中で
海賊に対する考え方は大きく変化していました。
当初、国が認めた範囲での海賊行為は、
スペインやフランス、オランダなどの弱体化を狙えると共に
イギリスに富をもたらすと考えられていました。
ところが時代は変わり、
長距離貿易が急速に進むと、
貿易による利益が大幅に増加。
権力者たちは貿易への出資に力を入れ始め
海賊たちは打って変わって、
自分たちの船を襲う都合の悪い存在になりました。
そして彼らへの見せしめとして、
広く名の知られる“キャプテン”キッドの
大々的な処刑が決定するのです。
捕らえられたキッドは
弁明の余地も一切与えられないまま
有罪判決を下され、
1701年、絞首刑に処せられました。
彼の亡骸はテムズ川の河口に
数年間、晒されたといいます。
さて、キッドは処刑の直前、
自分の集めた莫大な宝を
とある場所に隠したことを証言しています。
世界に眠る伝説の大秘宝については、
こちらの記事でご紹介していますので
気になる方はぜひチェックしてみてくださいね。
ところで、キッドが生きた時代、彼と同様
その凶悪さからヨーロッパ中を恐れさせた人物がいました。
エドワード・ロー。
海賊史上、最も残虐な行為を繰り返した
最恐最悪の大海賊。
ローにまつわる驚愕のエピソードの数々と
同時期に世間を騒がせた
名だたる5人の大海賊たちについては、
続く後編でご紹介します。
ぜひ、お楽しみに。