【後編】獰猛すぎる“最悪の世代”!最強最悪の大海賊9選

1718年7月、
海賊たちがひしめくバハマ諸島。

かつて世界一周を果たした元大海賊・
ウッズ・ロジャーズは、
イギリス政府の命により
初代総督としてカリブの海賊を取り締まりました。

かの名高い大海賊
ウィリアム・キッドの処刑から
17年の歳月が過ぎ、

これまでの英雄的待遇とは打って変わって
強制的な排除の対象と成り果てた
海賊たちは、権力に脅し掛けられ、
その多くが海を去っていきました。

残ったのは、なおも変わらず
海賊船に腰を据える強者たち。

国と時代に反逆する
最後の大海賊の姿を、
とくとご覧あれ。

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、最強最悪・9人の大海賊(後編)をご紹介します。

ジョン・ホーキンス
フランソワ・ロロノアなど
カリブ海を荒らしまわった4人の大海賊については、
前編でご紹介しています。

ぜひ先にチェックしてみてくださいね!

スポンサーリンク

エドワード・ロー(1690年-1724年)

世界の海賊史上、最も残虐な殺戮を
繰り返した大海賊、エドワード・ロー

1690年、ロンドンのスラム街で生まれたローは、
幼い頃から泥棒をして生きていました。

やがてアメリカ・ボストンに渡り
結婚してようやく幸せを掴みますが、
29歳の頃に妻を亡くし
絶望の中、海賊となりました。

ローの残虐さは
海賊の歴史の中でも類を見ないほどでした。

海賊として活動したわずか3年の間に
拿捕した船は少なくとも100隻以上。

そしてそのほとんどを燃やし、
捕らえた敵を殺す前に
地獄のような拷問で痛めつけるのです。

さらにローの怒りに触れようものなら、
一巻の終わり。

ある時、捕らえられたポルトガル船が
金貨をすべて海に沈めたことを白状すると

ローは激怒し、
船長の唇を切り落とした上
その場で焼いて食わせ、

さらには船員全員を虐殺した
という逸話もあります。

しかし一方で、
ローはこの凶暴性から想像できないほど
繊細な一面も持ち合わせていました。

最愛の妻を亡くした悲しみから
娘を残して海に出たことを後悔してか、

既婚のものは仲間に加えず、
また海賊行為で捕らえた女性は
危害を一切加えずに港へ帰していました。

ローの最期については
はっきりと分かっておらず、

1724年頃、カナリア諸島とギニアで
目撃されたのを最後に消息を絶ったと言われています。

エドワード・ティーチ(1680年頃-1718年)

ローと同じ時代を生きた海賊の中に、
最も恐るべきその名を世界中に轟かせた男が一人。

黒髭エドワード・ティーチ

誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。

ロジャーズの圧力を物ともせず、
カリブ海や大西洋を舞台に大暴れした海賊の一人です。

高い背丈に、引き締まった体格。

長く編まれた顔中を覆う髭。

凶暴で鋭い眼光。

その気性は荒々しく豪胆。

6丁のピストルを肩がけし、
帽子や髭に火をつけた導火線を仕込んだ姿は、
敵にはさぞ恐ろしかったことでしょう。

しかし、その矛先は時に
味方にも向けられました。

宴会中、なんの前触れもなく
不意に取り出したピストルで
突然部下の膝を撃ち抜いたことは有名な逸話です。

ところが、ティーチはどうやら
ただの狂人ではないようなのです。

頭が切れ、教養があり、
怒る時は感情に任せず
いかに恐怖を与えるかを考え、
攻略は力任せに実行せず
実に計算深かったとも言われています。

一体、どこまでが
彼のパフォーマンスだったのでしょう。

ティーチにまつわる数々の伝説と
その最期については、こちらの記事で
詳しくご紹介していますので
気になる方は、ぜひご覧ください。

アン・ボニー(1697年-1782年?)

誰よりも勇猛果敢に戦った女海賊、
アン・ボニー

ティーチやローとともに
海賊の黄金時代に生きた大海賊です。

アイルランドの高名な弁護士と
女中との間に生まれた良家の娘アンは
幼い頃から乱暴で、手が付けられない少女でした。

13歳の時には、テーブルナイフで
女中の腹を刺したこともありました。

大人になってもその性格は変わらず、
しかし資産家の娘ということで
求婚者は多かったといいます。

母親の死後、
家政婦として働きはじめますが、
ジェイムズ・ボニーという若い船乗りと駆け落ちし、怒った父親はアンを勘当。

彼と結婚したアンは
バハマの島へ移り住みました。

ところがアンは早々に夫に飽き、
今度はバハマの酒屋で出会った
海賊ジョン・ラカムと駆け落ちして

男の服に身を包み
共に海へと繰り出したのです。

海賊になってしばらくした頃、
ラカムの海賊団は
一隻のオランダ商船を拿捕し、
乗組員の数人を新たに団員に加えました。

そのうちの一人に
華奢で美しい顔立ちの青年がいました。

アンはすぐにこの青年を気に入りますが、
実は、その青年はアンと同じく
男装したメアリ・リードという名の女性だったのです。

二人は意気投合し、
共に海賊として名を挙げました。

戦場では男たちを差し置いて
誰よりも先に敵船に乗り込み、
危険な仕事をこなしたと言います。

1720年10月末、
ラカム海賊団がジャマイカ北岸に停泊中、
ジャマイカ総督の配下にあった
海賊狩りの軍艦に攻撃を受けました。

激戦の後、海賊たちは降伏しますが、
アンとメアリだけは最後まで抗い続け、

そして味方たちの隠れた倉に
銃弾を打ち込んで

「上がってきて男らしく戦え」

と叫びました。

結局、海賊団は捕らえられ、
男たちは全員絞首刑を宣告されましたが、
後から女性と判明した二人の女海賊については、別で裁判が設けられました。

アンとメアリは、妊娠していたのです。

二人は出産まで牢獄で過ごすことになりました。

その後、メアリは病気で亡くなり、
アンは弁護士の父の助けで牢獄を脱走して
行方をくらませたといいます。

バルバロッサ・ウルージ(1474年-1518年)

時は遡り、16世紀初頭。
地中海で名を馳せた大海賊がいました。

ローマ教皇ユリウス2世の船さえも
躊躇うことなく襲った強者。

イスラム国家の協力を得てのし上がった、
バルバロッサ・ウルージ

ウルージの出自は
はっきりと分かっていませんが、
1470年頃、エーゲ海のレスボス島に生まれ
イスラム教に改宗した
ギリシャ人の家族出身とされています。

若い頃はトルコ海軍で働き、
やがて私掠船の指揮を取るようになると

イスラム教の権力者に近づいて
港湾設備を使わせてもらう代わりに
自分の得た利益の5分の1を支払う

という契約を結びます。

そしてたちまち、ローマ教皇の
巨大な船を二隻拿捕したことで
ウルージの名は広く知れ渡りました。

その後も急速に勢力を拡大し
指揮下の船は8隻にもなりました。

ウルージは小柄ながらに
頑丈な体つきで、赤髭が特徴的な男でした。

1514年にスペインと争った際に
片腕を失いますが、
それでも勢いは止まることなく
3年の間に現在のアルジェリアの大部分の支配に成功します。

しかし、最後は
スペイン王に差し向けられた
一万の兵の襲撃に遭い、
乱戦の中、命を落としたとされています。

スポンサーリンク

チュイ・アプー(徐亞保)(-1849年)

大海賊が活躍した海は、
カリブ海や大西洋、地中海だけではありません。

19世紀、南シナ海。

香港最大勢力だったシャプ・ウグ・ツァイの海賊団の指揮官、チュイ・アプー

1840年〜1842年に
イギリスと清の間に起きたアヘン戦争直後

イギリスに敗れたことで、
香港は事実上イギリスの支配下にありました。

これに対抗するように、アプーは
香港近海のバイアス湾に拠点を置き、
イギリスを主とした欧州の商船を大いに苦しめました。

強力なジャンク船を駆使して襲撃する
アプーの船団は圧倒的な力を持っていましたが、

イギリスが蒸気を利用した軍艦を投入したことで状況は一変します。

1849年、イギリスは
香港の海賊を一掃すべく艦隊を派遣。

アプーの艦隊は壊滅し、
400人以上の部下を失いました。

アプー自身もまた深い傷を負い、
命からがら逃げ出しますが、
その後、密告によって捕らえられ、
牢獄に入れられてしまいます。

同年、イギリスの流刑地であった
タスマニアへの追放宣告を受けますが、
それが実行される前に自ら命を絶ったといいます。

さて、彼ら海賊たちが生き生きと海を渡り
栄華を極めた黄金時代。

カリブ海に浮かんだとある島には
海賊たちの楽園がありました。

あらゆる富と欲望の渦巻く、
ポートロイヤル

その都に集まる屈強なならず者たちを
一手に治めた伝説的な大海賊の存在も、
忘れてはなりません。

英雄として栄光を掴み、
楽園と共に海に沈んだ大海賊、ヘンリーモーガン

彼の壮絶な人生については
こちらの記事でご紹介していますので、
ぜひチェックしてみてくださいね!

この記事をSNSでシェア!
スポンサーリンク

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

error: Content is protected !!