日本史上最恐と謳われる!日本の三大悪女!

日本三大悪女

時代を越え、なおも噂の付きまとう
悪名高い女性たち。

一人は恐るべき醜い嫉妬を晒し、
一人は冷徹の心で強欲を極め、
一人は淫乱の恥知らず、一族の破滅を導く。

しかし、歴史の裏側には
えてして陰謀がはびこるもの。

世に広く知られる
彼女たちの嫌厭すべきその姿。

果たして、それは真実か?

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、日本史上最恐と謳われる、
日本三大悪女
をご紹介します。

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北条政子(1157年〜1225年)

尼将軍・北条政子

“嫉妬深く魂性悪き”その女、
尼将軍・北条政子

浮世絵師・一猛斎芳虎(いちもうさいよしとら)、
またの名を歌川芳虎によって描かれた
『武者鑑』に表された言葉。

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて
激動の時代を生きた政子は
1157年、伊豆国、現在の静岡県に
北条時政の長女として生まれました。

その後は周囲の反対を押し切り、
当時、伊豆国へと流されていた
源頼朝と結婚。

後に鎌倉幕府を開いた夫を支え、
頼朝亡き後は、実権を握り、
幕府と北条家を支えました。

日本三大悪女に数えられる理由

彼女が日本三大悪女の一人に数えられる所以。

それは、冷酷なまでの嫉妬深さにあります。

事の発端は政子の妊娠中、
頼朝に亀の前(かめのまえ)という
愛人がいることが発覚したこと。

激怒した政子は
亀の前を家ごと破壊するよう命じ、
徹底的な報復を下します。

一夫多妻が当然であった当時、
頼朝の正室・政子は
夫が他の女性のもとへ通うことを
決して許しませんでした。

亀の前は命からがら助かりましたが、
こうした過激な行動に
頼朝の愛人たちは政子をひどく恐れたと言うのです。

真相とは?

世間で広く語られる悪女の噂。

しかし歴史を紐解くと、
意外な真相が浮かび上がってきます。

悪女の謂れは、実は政子が生きた鎌倉時代より
400年以上も後の時代、江戸時代に
後付けされたものであると考えられています。

鎌倉時代において、
女性は男性と同等の発言力が認められており、
政子も立場を持って
北条家や鎌倉幕府を支えていました。

また、夫の愛人の家を破壊した報復行為は
後妻打ち(うわなりうち)と呼ばれ、
これは当時、正室に与えられた正当な権利であり、
社会的に許されていたのです。

ところが江戸時代になると
儒教の考え方が普及し、
女性は男性より社会的地位が低いと
みなされるようになりました。

妻は夫に従うもの。

女の口出しはよろしくない。

そうした風潮の中で、
かつての時代に国を動かした強い女性、
北条政子は疎まれ、
悪女の評判が後から付いてきたのだと考えられています。

実際、政子が生きた鎌倉時代や
続く室町時代には、
彼女を高く評価した文書や逸話が数々残っています。

裏表なく、はっきりとものを言い、
同じ御家人の女性たちからたいそう慕われ、
戦で夫を失った人がいれば
進んで保護するなどした強く、慈悲深い女性。

それこそが、悪女と言われた政子の
真の姿なのでしょう。

日野富子(1440年〜1496年)

足利義政の正室・日野富子

戦を利用し、巨万の富を得た女。
“守銭奴(しゅせんど)” 日野富子

室町時代後期から戦国時代前期にかけて
戦乱の世に生きた富子は、
1440年、山城国(現在の京都府)にて
代々足利将軍家と縁戚関係にある
日野家に生まれました。

のちに16歳で
鎌倉幕府第8代征夷大将軍、足利義政の正室となります。

日本三大悪女に数えられる理由

彼女が“悪女”と恐れられる所以。

それは、気性の荒さと強欲さにあります。

義政の正室となって4年後、
待望の第一子が誕生しますが、
生まれたその日のうちに亡くなってしまいます。

すると富子は、その原因は
義政の乳母が呪いをかけたためだと主張し、
彼女を琵琶湖の沖合にある沖島へと
島流しにして自害に追い込み、
さらには義政の四人の側室も追放したのです。

その後は長らく男子に恵まれず、
後継に困った義政は
実の弟であり、僧侶であった足利義視(よしみ)を呼び戻し、
次の将軍に据えることにしました。

格式高い浄土寺の門跡であった義視は
当初この申し出を拒絶していましたが、
後見人に有力者を添えることで何とか受諾し、
義政の養子という形で再び将軍家に迎えることとなりました。

ところが、安心も束の間。

翌年1465年、
富子が待望の男子・義尚を出産し、
当然、愛する息子のため、
次期将軍の座を奪おうと画策を始めます。

政治に疲れ果て、放棄したも同然の夫・義政は
実権がありながらも後継者の決定をせず、
事態は次第に複雑化。

やがては対立する大名たちの勢力に合わせた
東西二つの幕府が成立し、
長く続く応仁の乱(1467年)へと発展するのです。

この時、富子は非常に賢く立ち回りました。

戦に多額のお金が動くと考え、
片側の勢力につきながらも
両軍の大名たちに高い金利で
高額な金銭を貸し付けた結果、

富子の資産は膨れ上がり、全盛期には
現在の価値で約60億円にまでなったと言われています。

加えて、応仁の乱の勃発前には
京都につながる大きな街道に関所を設置し、
徴収したお金を懐に入れていました。

違う視点から見れば、働かない夫に代わり
幕府の財政を必死で支えんとする
将軍の妻としての献身的な行動とも取れるでしょう。

しかしいずれにしても、戦にお金に
次々苦しめられる庶民たちは、
不満を募らせていました。

とうとう一揆が起き、関所が破壊されると
富子はそれをすぐさま弾圧。

人々からさらなる恨みを買うこととなります。

7年の歳月が過ぎ、1473年、
富子の願いはついに叶い、義政は息子の義尚に
第9代征夷大将軍の座を継がせました。

そして4年後の1477年、
11年もの間、紆余曲折した応仁の乱は
和解という形で終結。

戦乱は京都の町に壊滅的な被害をもたらし、
富子は幕府の実権と莫大な資産を手に入れました。

その後、義尚は25歳という若さで亡くなり
続けて夫・義政も逝去しますが、
富子は尚も権力を持ち
幕府に大きな影響を及ぼしました。

享年56歳、資産は約70億円。

守銭奴と呼ばれた彼女は、
さてそう呼ぶに足る悪女か、あるいは・・・

あなたはどう思いますか?

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淀殿(1569年〜1615年)

豊臣秀吉の側室・淀殿

“大淫好色、恥を知らざる夫人“。

美しく高慢な女、淀殿

戦国時代から江戸時代初頭にかけて
壮絶な人生を生きた淀殿は、

1569年、近江国、現在の滋賀県にて
戦国大名の父・浅井長政
織田信長の妹・お市との間に
三姉妹の長女として生まれました。

淀殿、本名・浅井茶々(ちゃちゃ)は
良家の子でありながら、波乱万丈の人生を送ります。

茶々がまだ4歳の頃、
父が伯父の織田信長と敵対したために攻め入られ、
母に連れられ二人の妹と共に何とか城から逃げ出します。

父と祖父は自害、兄は処刑され、
捕らえられた茶々たちは織田家に保護されました。

その9年後、茶々が13歳の頃に
本能寺の変が起き、信長が自害。

一家は大きな後ろ盾を失います。

そこで母・お市は信長の家臣であった
柴田勝家と再婚し、
現在の福井県にあたる越前国へと移住します。

ところが、その翌年、
勝家が対立する羽柴秀吉、
のちの豊臣秀吉との戦いに敗れ、
勝家と共にお市も自害。(賤ヶ岳の戦い

その際、お市は、
娘たちを保護するよう秀吉に頼み込み
三姉妹は、一家の仇のもと暮らすこととなるのです。

一体どれほどの屈辱であったか。

妹二人が政略結婚に使われる中、
母親似の美しい茶々は
特別秀吉に気に入られ、19歳の頃に側室となりました。

翌年には長男・鶴松(つるまつ)を出産しますが、幼くして早逝。

悲しみに浸りながらも、
続けて次男・秀頼(ひでより)を出産します。

長く後継ぎのできずにいた秀吉は大変喜び、
京都の淀古城を産屋として与えました。

ここから茶々は“淀の方(よどのかた)”や
淀殿”と呼ばれるようになります。

1598年、秀吉が病気で亡くなると
息子・秀頼はわずか5歳にして後継者となり、
母である淀殿の発言権は盤石なものとなります。

しかしその後、徳川家康が天下を取ると、
秀頼を支える母・淀殿は次第に徳川家と対立。

そして、1614年の大坂冬の陣、
翌年の夏の陣で徳川軍の総攻撃を受け、
人生3度目の落城を迎えた淀殿は
息子・秀頼と共に自害し、
豊臣家は滅亡へと追い込まれたのでした。

日本三大悪女に数えられる理由

悲劇の一生を送った彼女が悪女と名高い所以。

一つには、浮気の噂が挙げられます。

女好きで知られる秀吉には
正室であるねねに加え、
わかっているだけでも十人以上の側室がいました。

しかし、子供はたった4人だけ。

まだ信長の家来だった頃に生まれ
幼いうちに亡くなった秀勝(ひでかつ)。

詳細な記録のない一人娘。

そして、淀殿との間に生まれた鶴松と秀頼。

正室との間にも一向に子が誕生しない中で
淀殿だけが二人も身籠ったため、
「父親は別にいるのでは?」と囁かれたのです。

真相は不明ですが
ただこれだけでは、三大悪女の名に劣る。

当然、ほかに大きな要因があります。

真相とは?

悲しいことに、淀殿は生涯を通して
悲劇の続いた女性でした。

彼女はただ、豊臣と徳川の双方に
良いように使われただけなのです。

豊臣家の崩落は淀殿が招いたことだ。

女なのに政治に手を出したり戦を仕切ったり。

淀殿さえいなければ、天下の豊臣家は滅びなかった。

淀殿が息子可愛さに
いつまでも無駄な抵抗を続けたから
徳川家は豊臣家を滅ぼさなくてはならなかった。

政権交代は正当な判断だった。

このような印象を世に広めれば
すべての責任は淀殿だけに向けられるでしょう。

世に出回る文書に記されたのは
我儘で淫乱で、出しゃばりな彼女の姿。

江戸時代の女性蔑視の風潮も相まって、
秀吉の功績を讃えた『絵本太閤記』には
おどろおどろしい蛇女として描かれ、
根も葉もない悪女の噂は死後もなお膨らみ続けました。

実際には人望が厚く、
度胸と才覚があったとされる淀殿は、
また一方では元来の性格ではなく、
政治などへの介入も本来は望まず、
せざるを得なかっただけとも言われます。

家族を引き裂かれ、
歳の離れた親の仇に添い遂げ、
ただ愛する我が子の未来のためだけに
一人、恨んだ豊臣家を死ぬまで守ろうとした淀殿。

日本屈指の悪女に仕立て上げられた彼女の真の姿は、
困難の中必死で人生を生き抜いた、
ただの美しい女性だったのです。

日本三大悪女の歴史と真相のお話。

守られるだけではない、
守るべきもののために戦う女性の
なんと強く凛々しいことでしょう。

世界の歴史に名を残す女性たちは
それぞれが想像を超えるほどの
壮絶な経験を抱えていたようです。

穏やかな日々に忍び寄る影。

迫り来る運命の時。

決断を下した彼女は、潔く立ち向かう。

一騎当千の覇者!
人類最強の五人の女戦士
については、
こちらの記事でご紹介していますので
気になる方は、ぜひチェックしてみてくださいね!

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