日本が誇る伝説の槍!全てを貫く“天下三名槍”!
天下三名槍。
それは、日本の国が生んだ至高の槍。
一に首斬りの御手杵(おてぎね)。
二に究極の日本号(にほんごう)。
三に無双の蜻蛉切(とんぼきり)。
数多の伝説を残す誉れ高き業物は
いつの世にも、人の心を惹きつける。
こんにちは。えむちゃんです。
今回は、全てを貫く伝説の槍!
日本の誇る“天下三名槍”をご紹介します。
雪降らしの槍!御手杵
三名槍の一筋(ひとすじ)は、
特別大きな「大身槍(おおみやり)」。
雪降らしの槍、御手杵(おてぎね)。
刀鍛冶を、駿河国の島田義助。
下総国の戦国大名、結城晴朝が作らせ
所有した一本です。
晴朝ののちは結城家に養子入りした
徳川家康の次男にして越前松平家の祖、
結城秀康へと受け継がれ、
その五男・松平直基が継いで以降は
前橋・川越藩松平家の家宝として大切に保管されました。
全長約3.8m。
刃渡り、すなわち穂の部分は138cm。
この特別大きな穂が、御手杵の特徴です。
一般的に「大身槍」と分類される穂の長い種類のものでも
平均60㎝ほどであり、御手杵はその倍以上にも及びます。
三角錐の刀身には、深く大きく掻かれた
樋(ひ)という溝が彫られ、
御手杵の長い穂に施すには
大変な技術を要したことが窺えます。
御手杵の名は、特徴的な鞘の形に由来します。
通常納めているのは、すらりと細長い鞘ですが
のちになって手杵形の鞘が作られました。
手杵とは、餅つきの際にまっすぐ下へ振り下ろす
中央部分のくびれた杵(きね)のこと。
かつて主人・結城晴朝が戦地で勝利を挙げ、
敵の首を十数個ばかり槍に刺して帰還していた時のこと、
中央あたりの首が一つ転げ落ちたといいます。
その様がまるで手杵のようだったので
象徴的な手杵形の鞘を作り、
戦地において自らの所在を示す馬印として掲げました。
江戸時代には
馬印は大名行列の先頭に掲げられるようになり、
松平家の格を示したのでした。
熊毛に覆われた巨大な鞘は
高さ150cm(5尺)、直径45cm(1尺5寸)、
重さは22.5kg(6貫目)と大変重く、
雨が降れば水を含んで37.5kg(10貫目)以上。
それを掲げて歩く人は大変だったことでしょう。
一度鞘を取れば、直ちに雨や雪が降り、
中身を見たものは目が潰れてしまうという
不思議な伝承も残っています。
松平家に代々大切に受け継がれた御手杵は
1945年(昭和20年)の東京大空襲の際に消失し、
現在は結城家のゆかりの地、
茨城県結城市にレプリカが展示されています。
呑み取りの槍!日本号
「槍に三位の位あり」。
三名槍の呑み取りの槍、日本号(にほんごう)。
無銘の槍でありながら”究極”と称され、
江戸時代には御手杵と並び
「西の日本号、東の御手杵」と謳われました。
全長321.5cm(10尺6分余)、
穂の長さは79.2cm(2尺6寸1分5厘)。
刀身には剣に巻き付く黒い龍、
不動明王の化身・倶利伽羅龍が
美しく繊細にあしらわれています。
元は朝廷の御物でしたが、
第106代正親町天皇が
室町幕府代15代征夷大将軍・足利義昭に譲り、
その後、織田信長、豊臣秀吉と
天下人の手に受け継がれました。
また異なる伝承によると、
かつて長さ二尺五寸の剣を天皇より秀吉が賜った際、
陛下の触れた剣を自分が腰にさすのは
あまりに恐れ多いからと
長さ五尺の竹の柄をつけ槍にしたところ、
大変立派なものになりました。
すると天皇はその槍に
上級貴族の階級、大納言にあたる正三位の位を与えたのです。
刀剣に位を授けるというのは、異例の出来事でした。
この時、秀吉はこの無銘の槍を
「日本号」と名付けたといいます。
さて、信長と同様、名のある武具をこよなく愛し、
収集していた秀吉は、
手に入れた業物を褒美としてよく授け、
部下にもその身分を問わず、惜しみなく与えました。
日本号はというと、天下統一を目指す秀吉が
1590年の小田原征伐にて後北条氏を滅ぼした際、
一番槍を務めた槍の名手、福島正則に贈られました。
6年後の1596年、正則の屋敷に
母里友信(もりとものぶ)という人物が訪ねてきます。
友信は関ヶ原の戦いにおいて一番の武勲を立てた
福岡藩主・黒田長政のもとに仕える家臣で、
優秀な家臣団、黒田二十四騎の中でも最も強い武将です。
主君・長政の命で遣ったという友信を、正則は迎え入れ、
酒を勧めてやりました。
友信は大の酒好きでしたが、
長政から決して飲むなと言われていたために固く断りました。
そのうち酔った正則は、友信にこう言いました。
「この酒を飲み干したら
褒美として欲しいものをなんでもやろう」
それでも友信が断ると、
黒田の武士は酒も飲めない腰抜けだと煽り始めました。
黒田の家まで貶められて、怒った友信は
なみなみ注がれた盃を次から次へと飲み干すと、
褒美に日本号を望んだのです。
正則は後悔しつつも譲り渡し、それゆえ日本号は
「呑み取りの槍」とも呼ばれるようになりました。
福岡民謡、黒田節にはこのように唄われています。
「酒は呑め呑め 呑むならば 日の本一のこの槍を
呑みとるほどに 呑むならば これぞ真の黒田武士」
その後、母里家にて受け継がれた日本号は
持ち主を転々とし、
現在は「福岡市博物館」に所蔵されています。
古今無双の槍!蜻蛉切
それは、振りかざさずとも斬れる槍。
古今無双の一筋、蜻蛉切(とんぼきり)。
刀鍛冶を、三河国の藤原正真。
東国一と称えられた徳川四天王の猛将、
本多忠勝が愛した一本です。
笹の葉のように広い形をした穂の
その長さは、43.7cm。
青貝をあしらった太い柄は、実に6mにも及びます。
蜻蛉切の名は、槍の穂先にとまった蜻蛉が
瞬間、真っ二つに斬れたという逸話に由来します。
これほどの切れ味を持つ大きな蜻蛉切を
徳川一の武将が振り回すのですから、
敵は恐ろしくてなりません。
「蜻蛉が出ると 蜘蛛の子散らすなり。
手に蜻蛉 頭の角のすさまじき。
鬼か人か しかとわからぬ兜なり。」
頭の角とは、本多忠勝を象徴する
立派な鹿の角を二本生やした黒い漆の
「鹿角脇立兜(かづのわきだてかぶと)」のこと。
さらに肩には大きな数珠を斜めに掛け、
それは数々の戦で葬った、大勢の無念な魂たちを
慰めるためであったと言われます。
名馬・三国黒(みくにぐろ)にまたがり、
長く鋭い槍を手に、鬼のごとく戦地を駆けるその姿は
こうして歌に詠まれるほどに強烈なものでした。
享年63歳、生涯赴いた57の戦地において
忠勝はただの一度も負傷せず、
最後まで忠節を尽くすことを望みました。
晩年は体力の衰えから
蜻蛉切の長い柄を90cmほど短くするも、
その強さは健在で
53歳で臨んだ関ヶ原の戦いでは90もの首を討ち取り、
主君・家康を天下統一へと導きました。
蜻蛉切は兜などとともに本多家で受け継がれ、
第二次世界大戦の際に離れたのち個人収集家が所蔵、
現在は静岡県、佐野美術館に寄託されています。
美しき日本の武具。
名のある至高の業物は、槍のほかにも。
日本刀の最高傑作。伝説の名刀“天下五剣”については
こちらの記事でご紹介していますので
気になる方は、ぜひチェックしてみてくださいね!