日本が誇る伝説の名刀!脈々と受け継がれる“天下五剣”!

日本刀の最高峰、天下五剣。

一に 邪悪な血を浴びて、

二に 優雅に空を切り、

三に 癒しの力を秘め、

四に 主を護り抜き、

五に 主を喰って呪う。

受け継がれし秘蔵の宝刀、ここに集まれり。

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、日本が誇る伝説の名刀!
脈々と受け継がれる“天下五剣”
をご紹介します。

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童子切安綱

鬼殺しの刀剣、童子切安綱

刀鍛冶を、伯耆国(ほうきのくに)の大原安綱

名刀・大包平(おおかねひら)と共に
東西の両横綱」と表され、
天下五剣の中で最も古い一振です。

童子切の名は平安時代、
武将・源頼光が頼光四天王を率いて
京の都を荒らす鬼の頭領・酒呑童子の首を
斬ったことに由来します。

鬼殺しの名刀は
時の権力者たちのもとを転々としました。

室町時代には足利将軍家が所有し、

その後、
室町幕府最後の征夷大将軍・第15代足利義昭から
天下人・豊臣秀吉へと贈られ(安土桃山時代)、

豊臣家の滅亡後は、
徳川家康、第二代将軍・徳川秀忠の手に渡ります。(江戸時代)

さらに刀は秀忠の娘・勝姫の嫁ぎ先である
越前松平家(現・福井県)へ、
そして津山松平家(現・岡山県)へと受け継がれました。

このとき、童子切が一体どれほどの切れ味なのか
試し切りをしてみようということになり、

町田長太夫という達人を呼んで
サッと斬らせてみたところ、

積み上がった6体の死体は一刀両断、
下の台座まで切れ込んだという逸話があります。

この”天下の名刀”を
津山松平家は家宝として大切に保管しますが、

昭和初期、童子切は個人の所有物となり、
やがて借金の担保として持ち出されることとなります。

その際に起きたいざこざは裁判沙汰にまで発展し、
最後は文化庁が2630万円(当時の価格)で
買い取ったことで収束。

現在は、国宝として
東京国立博物館に収蔵されています。

童子切の主人・源頼光率いる最強の家臣たち、
頼光四天王の猛き伝説については
こちらの記事をぜひご覧ください。

大典太光世

邪気払いの刀剣、大典太光世(おおでんたみつよ)。

刀鍛冶を、筑後国の三池典太光世(みいけてんたみつよ)。

徳川家第8代将軍・徳川吉宗の命により編纂された
江戸時代の刀剣書『享保名物帳』によると、

大典太は、
室町幕府初代征夷大将軍・足利尊氏から
足利家に代々伝わる秘蔵の太刀であり、

第15代征夷大将軍・足利義昭から
豊臣秀吉へと贈られた刀のうちの一振であるとされています。

大典太に宿るとされる、不思議な治癒の力。

「その刀を病人の枕元に置けば、
病はたちどころに治る」

かつて秀吉の忠臣の一人に、
加賀藩主・前田氏の祖となる前田利家という人物がいました。

彼の娘・豪姫(ごうひめ)は
2歳の時に秀吉とその正室・寧々(高台院)の養女となり、
二人に大切に育てられました。

やがて成長した豪姫は病弱で、出産のために大病を患い
心配した実の父・利家は

秀吉から何度も大典太を借り受けて
娘の回復を願ったといいます。(1595年)

そうして3度目の貸し出しの時、
秀吉は利家に大典太を贈り与え、(1598年)

以降、前田家は
大典太を家宝として大切に所蔵しました。

それから200年ほど経った江戸時代、(1792年)
大典太の切れ味を試す機会がありました。

代々、幕府の御様御用(おためしごよう)、すなわち
刀剣の試し切りを務める山田浅右衛門
死刑執行人としても知られる、通称”人斬り浅右衛門”。

その5代目・吉睦(よしむつ)が大典太を振った時
容易く死体を切り裂いて、その刃は台座にまで及び、

4度目の試し切りでは
3体重ねた死体のうちの2体を軽々両断し、
一番下の背骨に達してようやく止まったといいます。

大典太は国宝に指定された現在もなお、
前田家の文化財を保存する前田育徳会が
大切に所蔵しています。

数珠丸恒次

守りの刀剣、数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)。

刀鍛冶を、備中国の青江恒次(あおえつねつぐ)、
あるいは備前恒次(びぜんつねつぐ)。

すらりと長いその刀身は
敵を斬るためのものではなく、
数珠丸は魔の物を払う守り刀でした。

『享保名物帳』の写本の一つである
『詳註刀剣名物帳』によると、

かつて、鎌倉時代に生きた日蓮宗の開祖・日蓮聖人が
山梨県の身延山(みのぶさん)に出かけた際、

山賊が出るので一人では危険だと、
信者が守り刀を献上したといいます。

日蓮聖人はその刀の柄に数珠をかけて山に入り、
それゆえ、「数珠丸」と呼ばれるようになりました。

没後、数珠丸は身延山久遠寺(くおんじ)にて保管されるも
江戸時代以降、行方知れずとなり、
再び発見されたのは1919年頃のこと。

兵庫県尼崎市に住む刀剣愛好家・杉原祥造氏が
華族の競売品の中から、偶然、数珠丸を見つけ、
私財を投げ打って買い取りました。

元あった久遠寺への返納を試みるも、
本物かわからずに返却され、
家の近くの本興寺(ほんこうじ)に寄進。

その後、数珠丸は重要文化財に指定され、
現在もなお、本興寺にて年に一度
一般に公開されています。(11月3日・虫干会)

三日月宗近

雅びなる刀剣、三日月宗近 (みかづきむねちか)。

刀鍛冶を、山城国(やましろのくに)の三条宗近

その名は、刀身に三日月の模様があることに由来し、
優雅な反りの曲線美に
天下五剣の中で最も美しい一振と言われています。

平安時代に作られて以降、
どのような経緯で受け継がれたかは諸説あり、

一説には室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝が所持したとされます。

義輝は優れた剣豪で
数珠丸を除く天下五剣の4振を愛刀として持ったといい、

生涯最後の戦いとなる「永禄の変」にて
敵の三好に攻め入られた際には

圧倒的な人数差の中、名刀の数々を畳に突き刺し
刃こぼれするたび刀を変えつつ敵を次々打ち倒しました。

最後は敵軍に押し込められ
畳ごと貫かれてしまいますが、

窮地においても義輝は
三日月だけは鞘から抜かなかったといいます。

穢れなき三日月。

『享保名物帳』(きょうほうめいぶつちょう) によると、
三日月は豊臣秀吉の正室・寧々が所持したと伝わり、

また将軍家の腰物帳(こしものちょう)には、
その後、徳川家第2代将軍・徳川秀忠に贈られ、
以降、徳川将軍家に受け継がれたとされています。

昭和初期になると
個人所蔵家(中島喜代一→渡辺三郎)の手に渡り、
国宝に指定後の1992年、東京国立博物館に寄贈されました。

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鬼丸国綱

呪われの刀剣、鬼丸国綱(おにまるくにつな)。

刀鍛冶を、山城国の栗田口国綱(あわたぐちくにつな)。

それは、主を滅ぼす”不吉な刀”。

室町時代の軍事記『太平記』には、


鎌倉幕府の初代執権・北条時政が所持したとする記録があり、
以降、北条家の宝として受け継がれますが、

第14代執権・北条高時が自害する際
鬼丸は武将・新田義貞(にったよしさだ)の手に渡ります。

しかし、義貞は足利尊氏と争うこととなり、
敵将・斯波高経(しばたかつね)に討ち取られて
刀は高経の元へ。

すると今度は高経が足利尊氏と対立し、降伏。

鬼丸は尊氏の手に渡り、
足利家の家宝となりました。

およそ200年の歳月が過ぎ、
鬼丸は童子切や大典太と同様、
足利義昭から豊臣秀吉に贈られます。

ところが、秀吉は鬼丸を他へ預けてしまうのです。

預けた先は、足利尊氏の時代から
刀の研磨や手入れ、鑑定を生業としてきた一族、本阿弥家

一説に、刀を手にした者が悉く没落してきたという
不吉を嫌い手放したとも言われますが、
結局、豊臣家も鬼丸の呪いから
逃れることはできませんでした。

秀吉の死後、豊臣家は衰退し
天下は徳川家康のものに。

大坂の陣では大阪城が落城し、
秀吉の愛した多くの名刀も失われました。

本阿弥家に預けていた鬼丸は家康の手に渡りますが、

家康や息子・秀忠も手元に置こうとはせず、
引き続き本阿弥家が鬼丸を預かりました。

後に、第108代後水尾天皇(ごみずのおてんのう)に
皇子が生まれ、

秀忠から鬼丸が献上されると、
あろうことか、生まれたばかりの皇子は亡くなり、

鬼丸の呪いはますます真実味を帯びて
結局、再び本阿弥家のもとに返却されました。

時が経ち明治時代、本阿弥家はついに
所有権のはっきりしない鬼丸を新政府へと届け出ます。

鬼丸は後水尾天皇に献上された経緯を踏まえて
明治天皇に贈られ、

天下五剣で唯一の皇室の私有財産として
宮内庁が管理し、現在も大切に保管されています。

日本に実在する、呪われの刀剣の数々。

特級呪具6選の記事では、今回ご紹介しきれなかった
鬼丸の不思議な伝説もご紹介しています。

気になる方は、こちらの記事を
ぜひチェックしてみてくださいね!

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