天下に名を轟かせた最恐の悪女!中国三大悪女
その女、人の皮を被った悪魔。
中国三大悪女。
鬼畜の所業はおぞましく、
狂気の沙汰は筋金入り。
耳を疑うほど残酷な史実の数々、
きっと貴方は戦慄する。
こんにちは。えむちゃんです。
今回は、悪魔の所業!最恐の悪名高い女たち、
中国三大悪女をご紹介します。
呂后 / 呂雉(前241年-前180年8月18日)
“猜疑心強く残忍な”女。
前漢の皇后・呂后(りょこう)、
またの名を呂雉(りょち)。
秦の始皇帝の死後、
農民の出身でありながら荒れる天下を統一し
漢の初代皇帝となった英雄・劉邦(りゅうほう)の
妻にあたる人物です。
街の名士であった父が、宴の席で
若き日の劉邦と出会ったことで
呂后の人生は大きく動き出しました。
弱きを助ける武力集団、侠客であった劉邦の人相を
たいそう気に入った父は、妻の反対を押し切って
呂后を劉邦に嫁がせます。
やがて生まれた一男一女の子供たちを育てながら、
呂后は劉邦の父の実家の手伝いをして暮らしていました。
しかし、戦争が始まったことで
国は戦乱の世となります。
親分肌の劉邦のもとにはたくさんの人が集まり、
瞬く間に一大勢力に。
呂后は人質に取られるなど
数々の困難に巻き込まれながらも、
紀元前202年、劉邦が最大の敵・項羽を滅ぼしたことで
呂后は皇后の座についたのでした。
こうして皇帝となった劉邦でしたが、
その後は各地で起きる反乱のために奔走し、
宮中では後継者を巡っての裏切りや策略が日常的に横行して
なおも国は荒れていました。
目まぐるしい日々の中、
狂い始める呂后の運命。
そして劉邦が亡くなると、
ついにその残虐性が顕になるのです。
夫の死後、呂后は息子の恵帝(劉盈)を
皇帝の座につかせることに尽力します。
しかし生前の劉邦は、恵帝のことを
「弱々しくて自分とまるきり似ていない」
と言って可愛がらず、
後に寵愛した側室・戚夫人との間に生まれた子の方を
皇太子にしたいと考えていました。
戚夫人も「自らの子を皇太子にしたい」と
劉邦に日夜泣きつき、
歳をとった呂后を
劉邦は疎んじて会わなかったといいます。
恨みの募る呂后は、
実家である呂氏一族と重臣らの助けを借りて
後継者争いに勝利。
息子・恵帝を皇帝に、
自分は皇太后として実権を握ったのでした。
ここから、呂后の恐ろしい復讐が始まります。
母の不穏な企みを察知した恵帝は
戚夫人の子を自らの側に置き守ろうとするも、
呂后が隙をついて毒殺。
さらに戚夫人を捕らえると
両手両足を切断し、目をくりぬき、
耳と喉を薬で潰して便所に捨て、
それを人彘(人豚)と呼ばせて笑いました。
数日後、呂后は戚夫人のむごたらしい有様を
あろうことか息子に披露します。
母の狂気に、恵帝は心を病んで政務を放棄し、
酒に溺れた末、間もなく死去。
葬儀では、息子の死を激しく嘆く呂后の
目から涙は出ていなかったという伝承も残されています。
呂后の残酷な行為はその後も続きます。
実家・呂氏一族の地位を固めつつ、
諸侯王として各地に配置されていた
劉邦と側室たちとの子供たちを次々と暗殺しては
その後釜に一族を据え、
反発するものは
皇族、国家に尽くした功績者も関係なしに粛清しました。
そんな呂后ですが、その政治力は確かなもので
当時の国民の生活は安定していたと言われ、
また晩年は、これまで陥めてきた者たちの祟りを恐れ、
日食が起きた際には「自分のせいだ」と周囲に語っていたと言います。
身を削り、狂ってなお手放さなかった、一族繁栄の願い。
悲しいかな、呂后の死後まもなくして
呂氏のほとんどは誅殺され、一族は滅亡したのでした。
武則天 / 則天武后(624年2月17日-705年12月16日)
“執着心強く悪知恵に長ける“女。
中国史上唯一の女帝・武則天、
日本ではよく“則天武后”と呼ばれる人物です。
政治を担う貴族の一つ、
代々資産家の家に生まれた武則天は
英才教育を受けて育ち、
聡明な頭脳と、他を魅了する美貌を持ちあわせていました。
しかし、12歳の時に父が亡くなると
それまでの生活は一転、
異母兄弟から虐げられる日々を送るようになります。
14歳で唐の第二代皇帝・太宗(たいそう)の後宮に入り、
太宗が亡くなったのちは慣習に従い出家しました。
太宗に代わり第三代皇帝に即位したのは、息子の高宗。
宮中では、女性たちの権力争いが勃発していました。
激しく火花を散らすのは、
高宗の妻、王皇后と
側室・蕭淑妃(しょうしゅくひ)。
子に恵まれない王皇后に代わり
蕭淑妃が高宗の寵愛を受け始めたことで
対立が深まったのです。
そこで王皇后は、高宗の意識を蕭淑妃から逸らそうと
美しい武則天を呼び戻しました。
企みはうまく行き、
高宗はすっかり武則天に夢中になりますが、
行き過ぎて、皇后に次ぐ位を与えたいと言い始め、
周囲の反対によって実現こそしなかったものの、
それならばと今度は王皇后の位を下ろして
武則天を皇后の座に付かせようとする始末。
そんな中、武則天の生まれたばかりの娘が
王皇后の訪問直後、突如亡くなるという事件が発生します。
きっと王皇后が嫉妬にかられて殺害したのだ・・・
噂は瞬く間に広まり、
結局、王皇后は冤罪によって
庶民に落とされ、投獄。
代わって武則天が皇后の座についたのでした。
一説に、一連の事件は、王皇后を失脚させるために
武則天が自ら仕組んだと言われ、
これが事実ならば、
目的のため我が子を犠牲にしたことになります。
皇后となった武則天は、655年、
王皇后もとい王氏と蕭淑妃を捕らえると
二人を百叩きの刑に処したのち、四肢を切断。
そのまま酒壺に投げ込んだという伝承も残っています。
病気がちな夫・高宗に代わって政権を掌握した武則天は
狡猾に立ち回りました。
重要な役職には自分の一族を任命しつつ、
有力貴族の後ろ盾が少ないため、
身分は低いが才能と忠誠心のある者を
積極的に採用して地盤を固めました。
やがて絶大な権力を持つと、
徹底的な情報収集によって
裏切り者を次々と粛清。
夫・高宗が亡くなった後も、裏で糸引く傀儡政治を行い、
反乱を起こそうとする者がいれば
一族もろとも根絶やしにて、
気に入らない者は、たとえ親族でも許しませんでした。
こうして、690年。
武則天はついに女帝の位に就き、
一国を支配するに至ったのです。
西太后(1835年11月29日-1908年11月15日)
“支配欲深く浪費家な”女。
清の皇帝、咸豊帝の側室・西太后。
夫の死後、48年間にも渡り
権力を欲しいままにした人物です。
1835年、清王朝の中堅官僚の娘として生まれた西太后は
文官であった父から厳しい教育を受けて育ちました。
18歳で後宮に入ると(1853年)、
3年後に咸豊帝の世継ぎとなる長男を出産(1856年)。
咸豊帝の最初の正室は、即位前に亡くなっており、
第二夫人の東太后は男子を産めず、
第三夫人の西太后が世継ぎを産んだことで
その地位を高めます。
この時代、国内では
大規模な反乱が起き(太平天国の乱, 1851年-1864年)、
さらには、貿易拡大を望むイギリスとフランスによる戦争・
アロー戦争(第二次アヘン戦争, 1855年-1860年)に敗戦するという
混乱の真っ只中にありました。
そんな中、咸豊帝が死去(1861年)。
すると、西太后は
亡き夫の側近らをクーデターによって粛清し、
まだ幼い息子・同治帝を皇帝に即位させると
東太后とともに摂政政治(垂簾聴政)を行います。
政治に関心のない東太后に対し、
ますます権力を欲する西太后。
同治帝は19歳という若さで崩御しますが(1875年)、
その間、実権を握り続け、
気に入らない皇后を幽閉し殺害するなど暗躍しました。
さて、息子の死を嘆く間もなく、
宮中では再び後継者問題が浮上します。
西太后は自らの地位の低下を防ぐため、通例を破り、
当時3歳の甥・光緒帝を即位させました。
ちょうどこの頃、国内では
天候不良による大飢饉が発生。
被害は数年に渡るも、その間西太后は何の救済もせず
1000万人以上の餓死者を出す事態となりました。
1881年、東太后が急死すると、
続けてともに政治を動かしてきた
咸豊帝の弟・恭親王を失脚させ、
実質的に西太后を止められる者がいなくなってしまいます。
やがて、甥・光緒帝が成人し(1887年)、
自ら政治を行うようになっても、
西太后は依然その動向を細かく確認し、口出しを続けました。
1895年には日清戦争で敗北しますが、
その敗因は西太后による莫大な浪費。
その額、日清戦争の総費用の数倍以上と言われています。
浪費を止めるように進言した臣下は処刑され(1896年)、
もはや手の付けられない西太后を
幽閉しようと画策したのは、甥・光緒帝でした。
これに気づいた西太后は激怒して
返って光緒帝を幽閉し、
64歳にして再び権力の座に舞い戻るのです(1898年)。
その後も、光緒帝が寵愛する側室を
井戸に投げ込むよう命じて殺害するなど(1900年)、
悪事を繰り返したと言われる西太后は
1908年に光緒帝が崩御した翌日、
72歳で亡くなったとされています。
光緒帝の死因は毒殺。
近年行われた研究の結果、
遺体からは致死量を上回るヒ素が検出され、
何者かに暗殺されたことが判明しました。
厳重に幽閉された皇帝殺害の謎。
一説には、西太后が
自分の病を知って光緒帝が喜んだという密告を受け
激怒して暗殺に及んだと言われています。
国を傾けた救いようのない悪女。
しかし一方では、勢力拡大を図る列強との争い、
加速する近代化の流れが差し迫る激動の時代を生き抜いた
という点で、認められる面もあるようです。
さて、あなたはどのように見ますか?
恐ろしき、中国三大悪女のお話。
見るも無惨な仕打ちの数々に
きっとあなたも驚いたことでしょう。
さて、三大悪女と呼ばれるものは、
日本の歴史にも存在します。
古く伝わる黒い噂。
しかし、それらは本当に伝承の通りでしょうか?
悪女と蔑まれた彼女たちの、真の姿とは・・・?
日本史上最恐と謳われる!日本三大悪女については、
こちらの記事でご紹介していますので
気になる方は、ぜひチェックしてみてくださいね!