鞍馬山の鬼神!日本人が知らない節分の起源
もろ人の 儺やらふ音に 夜はふけて
はげしき風に 暮れはつる年
(藤原定家『拾遺愚草』)
鬼どもを払う人々の声に夜は更け、
強い風に煽られて一年が暮れてゆく。
年の瀬の節分の風習を歌った、この和歌。
季節の移り目、年の移り目にやってくる
鬼や妖、怪しき類を払い清める”鬼やらい”、
すなわち豆まきの風習は、
平安時代のとある伝承に由来します。
こんにちは。えむちゃんです。
今回は、鞍馬山の鬼神!日本人が知らない節分の起源
をご紹介します。
節分の風習
節分とは?
「鬼は外、福は内」。
賑やかな声が街に溢れる、節分の日。
現在は2月の「立春の前日」となっていますが、
かつては少々異なりました。
そもそも「節分」という言葉は
「季節を分ける」ことを意味します。
四季が巡るたびに迎える
新たな季節の始まりの日、
「立春」・「立夏」・「立秋」・「立冬」。
これらの一つ前の日、ちょうど境目の
季節が変わる前の最後の日が「節分」であり、
本来は年に4回あったのです。
では、なぜ現在は「立春の前日」のみが
「節分」の日とされているのでしょう?
それには、暦の変化が関係しています。
現在私たちの使っている「新暦」、すなわちグレゴリオ暦は
またの名を太陽暦といい、
太陽の周りを地球が一周することを基準に
一年を365日と定めたものです。
冬から春へと変わる「立春」は
新暦においてはちょうど2月3日頃にあたります。
一方で、明治時代以前まで使われていた
「旧暦」、別名を「太陰太陽暦」は
月の満ち欠けを基準に一年を約354日とするもので、
徐々に季節がずれてきた時は
閏月をひと月加えて調整していました。
旧暦における立春に最も近い新月は
現在よりも2ヶ月ほど早い、「元日」。
ゆえに当時の「立春」とは
「新年」を迎える日に近く、
その前日にあたる「節分」は「大晦日」、
大まかな年越しの日と認識されていました。
こうしたことから、年4回ある中でも
立春前日の節分は特別重要なものとされ、
やがてこの1日だけが年中行事となり、
新暦にも受け継がれたのです。
追儺と節分
「節分」の風習の歴史は古く、
今から1000年以上も前には
その源流となるものが存在していました。
かつて大晦日に行われていた「追儺(ついな)」の儀式、
「鬼やらい」です。
「追儺」とは、旧年の厄災を祓い清めるため
陰陽師らによって行われた宮廷行事の一つで、
病気をもたらす寒気の鬼や
その他様々な厄を祓う、重要な儀式でした。
古くは中国の「大儺(たいな)」と呼ばれる
12月(季冬)の災厄を祓う風習が伝来したものとされています。
「大儺」に関する最も古い記録が登場するのは、
平安時代初頭に編纂された『続日本記(797年)』。
そこには、706年の出来事として
初めて行われた大儺の様子が記されています。
十二月晦日の条
「天下の諸国に疫疾ありて、百姓多く死す。
初めて土牛(土製の牛)を作りて、大いに儺す。」
さらに平安時代に入ると、
黄金四目の面、黒い装束に朱い裳、熊の皮をまとった
神に扮する方相氏という役職者が
侲子(しんし)と呼ばれる子供たちを率いて、
目に見えない鬼を追い払うという形が取られ、
儀式には桃の木の矢や葦の矢が
用いられるようになりました。
鬼を追い払うことから、
行事の名も大儺から「追儺」へと変化します。
平安末期になると一転。
それまで見えない鬼を払う役だった方相氏は
かえって鬼に見立てられ、
姿形のある鬼を追い出すようになります。
なお当時、節分の儀式としては
息災延命を願いお経を唱えていたといい、
このように元来、追儺と節分は別の行事でした。
それがいつしか節分の風習へと
移行していったと考えられています。
鞍馬山の鬼神と豆撒き伝説
節分と豆撒き
さて、節分の日に「豆まき」が行われるようになったのは
南北朝時代以降になってからのこと。
室町幕府に関する記録『花営三代記』
(1421年1月8日(節分)の条)や、
室町時代の皇族の日記『看聞御記』
(1425年1月8日(節分)の条)には、
1420年代、1月の節分の日に豆を投げ
邪気を払う様子が記されています。
また、京都・相国寺の僧侶が残した日記
『臥雲日件録(1447年12月22日の条)』によると、
1447年の当時には、すでに上流階級に限らず
庶民たちの間にも浸透し、
「鬼は外、福は内」という掛け声とともに
豆撒きが行われていたといいます。
鞍馬の鬼神と豆まき伝説
では、なぜ節分には鬼を払うために
豆を撒くのでしょう?
1445年に編纂された室町時代の事典
『壒嚢鈔(あいのうしょう)』には
次のような伝承が綴られています。
節分の夜に豆を撒くこと。
確かな説は見たことがないが、ある古い文献によると、
この風習は平安時代初期、
第59代宇多天皇の時代(867年〜931年)に始まったという。
この頃、京都・鞍馬山の僧正ヶ谷と
美曽路池の端の方丈の穴に
二頭の鬼神、藍婆(らんば)と惣主(そうず)が住み、
都に繰り出し乱暴を働こうとしていた。
毘沙門天の思し召しにより、
ある寺の僧がこれを知り、天皇に報告した。
天皇はそれをお聞き入れになると、
官僚育成機関、大学寮における
四つの学科、四道のうちの明法道に命じて
七人の博士(はかせ)を集め、四十九の家の者とともに
方丈の穴を封じ塞いだ。
さらに、三石三斗の大豆を煎て
鬼の目に投げつけた。(一石=約180ℓ、一斗=約18ℓ)
そして鬼神の十六もある目を打ち潰すと
彼らは頭を抱えて逃げ去った。
節分の行事
穢れを祓う「魔滅」
こうした伝承から節分に使われている大豆ですが、
実はこれだけに止まらない、深い意味が他にも込められています。
「魔を滅する」と書いて「魔滅(豆)」と通じるように、
古く大豆には厄を払う力があると信じられました。
中国最古の薬物学書『神農本草経』には
大豆は鬼の持つ毒、「鬼毒を殺し、痛みを止める」と記され、
この考えが伝わった平安時代の日本においても
大豆の煮汁は鬼を殺し、一切の毒を消すと考えられていました。
さらに、豆は豆でも
「煎豆」であることにも理由があります。
「豆を煎る」こととは、すなわち「魔の目を射る」こと。
節分の豆は、穢れや厄災を負うため、
撒いた豆から芽が出ると、
封じ込めていた悪いものが再び蘇ってしまいます。
そのため、芽が出ないよう豆を炒っておくのです。
加えて、煎豆は薄皮が簡単に剥がれて実が現れることから、
新年を迎えるのにふさわしく、
人々は「来年も健康に暮らせるように」と願いながら
撒いた豆を年の数だけ食べて
厄災を跳ね除け、力を得ようとしたのです。
柊鰯 / 焼嗅(やいかがし)
節分の日の慣わしは、豆まきだけではありません。
例えば、節分の夜には、厄神を追い払うため、
鰯(いわし)の頭など臭い匂いのするものを焼いて
戸口に刺す「柊鰯(ひいらぎいわし)」の風習。
これも、事典『壒嚢鈔』にその由来が記されています。
聞鼻(かきはな)という鬼が人を喰らおうとした時は、
鰯を炙って串にしたものを
「炙串(しゃくし)」と名付けて
家々の門に指すとよい。
そうすれば、鬼は人を襲うことができない。
この思し召しを与えた毘沙門天は、
仏教における四天王の一柱であり、
そしてまた、七福神の一柱でもあります。
福をもたらす七福神については、
こちらの記事をぜひご覧ください。
特殊な例
その他、節分の風習の特殊な例としては、
名字に「鬼」とつく家や、
鬼との関わりを持つ寺院(金峯山寺/奈良県)などでは、
あえて豆まきをしなかったり、
「福は内、鬼も内」と唱えたりする場合もあります。
これは、先祖に鬼斬りの英雄がいたり、
鬼を改心させた伝承にならい
鬼を払わず受け入れたりといった
様々な背景があるようです。
大晦日や節分など、年や季節の変わり目には
お盆と同様、祖先の霊が戻ってくる。
しかしそれと同時に、
異界から鬼や妖怪、化け物が出現しやすい時期でもあります。
人々は、新たな季節を清らかに迎えるために
節分の厄払いを重んじたのでしょう。
ちなみに、節分の夜は
道具の妖怪、付喪神たちが現れて
人の街を練り歩くと伝わります(『付喪神記』)。
長く使われ、人間に尽くし、やがてその身に魂を宿して、
そして立春前に捨てられた古道具たちの
恨みつらみの百鬼夜行。
霊魂宿りし器!平安より伝わる幻の付喪神9選については
こちらの記事でご紹介していますので
気になる方は、ぜひチェックしてみてくださいね!