【後編】伝説の山で発見された巨大な方舟の痕跡!?ノアの方舟伝説の真相!

各地の神話に伝わる、ノアの方舟伝説

伝説の舞台、古代メソポタミアの地では
神話に伝わるノアの方舟伝説が
史実であることを物語るかのような、
大規模な洪水の痕跡が発見されました。

洪水が実際の出来事であれば、
神のお告げによりノアが作った“方舟”も、
現実に存在したのでしょうか?

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、旧約聖書に伝わる
アララト山で見つかった巨大な方舟の痕跡の数々をご紹介します。

旧約聖書に記された
ノアの方舟伝説のあらすじと 
シュメールの粘土板に刻まれた洪水伝説
古代メソポタミアの地に残る大洪水の痕跡
については、前編・中編でご紹介しています。

ぜひ先にチェックしてみてくださいね!↓

【前編】洪水伝説は事実だった!?ノアの方舟伝説の真相!

【中編】世界各地に伝わる大洪水伝説!ノアの方舟伝説の真相!

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ノアの方舟はどこにある?

洪水の被害を唯一逃れ、
山に漂着したと伝わる方舟。

歴代の冒険家・歴史家たちは
数々の神話に伝わる情報を頼りに、
探索を行ってきました。

まずは彼らが方舟の漂着先だとした
山の候補を見ていきましょう。

候補1: アララト山

第一の候補、『旧約聖書 創世記』に
ノアの方舟が漂着したと伝わる、
アララト山”。

その場所はトルコの東の端、
アルメニアとイランの国境近くに位置する
標高5137mの山とあります。

12世紀、ヨーロッパの人々によって
ノアの箱舟が漂着した山だと見做され、
アララト山と命名されました。

アララト山の周辺には
紀元前〜1900年代まで、
長くアルメニア民族の人々が住んでいました。

ところが第一次世界大戦中、
アルメニア人はオスマン帝国により
アララトの地から強制移住させられることとなります。

当時はすでにオスマン帝国時代の末期。

第一次世界大戦後、
アララト山はトルコ領となりましたが、
その際多くのアルメニア人が命を失い、
アルメニアとトルコとの間には
現在も複雑な問題が残っています。

アルメニアの人々にとって
アララト山は民族のシンボルとなっており、
国を象徴する国章には
アララト山とノアの箱舟が描かれています。

候補2:ニシル山

第二の候補、『ギルガメッシュ叙事詩』に
ウトナピシュティムの方舟が漂着したと伝わる、“ニシル山”。

ニシル山は
イラン高原にある標高約2743mの
ピル・オマル・グドルン山(Pir Omar Gudrun)だと言われています。

ニシル山のその名は
一般にそう読まれているというだけで、
実は断定ができていません。

なぜなら、粘土板に刻まれた
“ニシル山”を表す楔形文字のうち
二番目の文字が、複数の発音を有しているためです。

それゆえ、
一般に“ニシル山”とされるその山は
“ニツィル山”であるかもしれないし、
あるいは“ニムシュ山”かもしれません。

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方舟の探索の歴史と発見の報告事例

歴史家ベロッソスの記録(紀元前3世紀)

さて、神話に伝わる方舟の痕跡を求めて、
神秘的なこれらの山々には
多くの探検家や研究家たちが探索に赴いてきました。

探索の記録は、
古くは紀元前3世紀にまで遡ります。

古代都市バビロニアで活躍した
歴史家ベロッソスは、
天地創造から彼が生きた時代までの神話や
バビロニア諸王の歴史などをまとめた
バビロニア誌』を記した人物です。

彼の記録には
このように記されています。

アルメニアの山地には
方舟の残骸が残されており、
地元の人々はその残骸から
タールを削り取り、魔除けにしている

ベロッソスの著作は
一部しか現存しませんが、
これまで多くの歴史家たちが
資料として用いています。

歴史家フラウィウス・ヨセフスの記述(1世紀)

のちの1世紀に方舟の記述を残したのは、
ユダヤ人の歴史家、フラウィウス・ヨセフスです。

彼が記した全20巻にも及ぶ
ユダヤの歴史書『ユダヤ古代誌』には、
天地創造から、西暦66年〜77年、
帝政ローマ期に起こったユダヤ戦争直前までの歴史が記されています。

方舟に関する記録は、このようなものです。

かつて方舟は
アルメニアの山中に漂着し、
そこに住む人々は、その場所を“上陸地点”と呼ぶ。

彼らは今日に至るまで
その残骸を見せてくれる

マルコ・ポーロの『東方見聞録』(13世紀)

ヨセフスの時代から長い年月が過ぎ、
13世紀。

冒険家、マルコ・ポーロ(1254-1324年)は
旅路での見聞を記した『東方見聞録』を執筆しました。

そこで彼は、舟の残骸の存在を示唆しています。

方舟は山の頂で万年雪に埋もれている

そしてこの記述に応えるかのように、
ついに方舟らしき残骸が見つかるのです。

木材建造物の発見(1883年)

1883年、アララト山で雪崩が発生。

被害調査に乗り出したトルコ政府関係者は
ノアの方舟と思わしき、
古い木材建造物の一部が氷河から突き出ているのを発見します。

崩壊の危険性があったため、
調査は途中で断念されたものの、
このニュースは世界中の新聞で取り上げられました。

帝政ロシアによる大規模調査(1880年〜1910年)

また同時期、
1880年〜1910年頃に行われたとされる
帝政ロシアによる大規模調査でも
方舟の残骸が捜索されています。

当時、アララト山周辺にまで勢力を伸ばしていた帝政ロシアは、大規模な捜索隊を編成。

その結果、
大きな成果を収めたとされていますが、
1917年に起きたロシア革命の混乱により
その資料は紛失してしまったとされています。

氷河に閉ざされた巨大な木材(1950年代)

1952年、フランスの実業家フェルナンド・ナバラがアララト山を登山中、
氷に閉ざされた巨大な船らしき影を発見します。

数年後、彼は改めて調査に向かい
残骸から化石化した木材を回収すると、
複数の大学や研究機関に提出し
年代測定を依頼しました。

鑑定の結果、木材の材質はオークであり、
約5000年前のものであると判明します。

トルコ空軍による調査(1959年)

さらに1959年には、測地調査をしていた
トルコ空軍のパイロットが
アララト山から南へ約30kmの場所にある
アキャイラ連山の上空から
船の形状をした地形を発見しました。

その地形は自然のものにしては
あまりに不自然でした。

その後の詳細な測量により、
その長さは約140m、幅が46mあることがわかりました。

これは、聖書に登場する方舟と
近しい大きさです。

伝説に残る漂着地、アララト山からは
少し距離があるものの、
長い歳月の中で地滑りが起き、
この場所まで移動したのではないか
ということも推測されました。

翌年、更なる調査が行われた結果、
方舟型の地形は、
溶岩や土砂が固まってできた自然物である
と結論づけられます。

しかし、現在でも、
調査中に土砂の中から
石化した柱の破片が見つかった・・・
などの噂は絶えず、
周辺からは、石材製の遺物も出土しています。

4800年前の木片の発見(2010年)

2010年、
方舟を捜索していた調査チームが
アララト山の山頂付近で
船と見られる構造物を発見し、
その木片を回収したと発表しました。

彼らの報告によると、発見された構造物は
アララト山の標高4000m地点にあり、
内部はいくつかの部屋のように分かれていたといいます。

これまでに標高3500m以上の場所で
人が住んでいた痕跡が見つかったことはなく、この構造物は明らかに異常でした。

そして、回収した木片を
炭疽年代測定にかけたところ、
驚きの結果が出ます。

木片は、約4800年前、
紀元前2800年頃のものでした。

ちょうど、神話に伝わる時代と一致するのです。

この構造物が方舟の残骸であるという
明確な証明はできていないものの、
このニュースは現地トルコでも大きく報道され、世界中で話題となりました。

世界を飲み込む大洪水を逃れ
生き物たちの栄える未来を守り抜いた、
ノアの方舟。

現在のところ、はっきりとした痕跡は見つかっていませんが、
このように数々の報告がなされています。

かつて本当に神話の通りのことが起きたのだとすれば、
ノアの繋いだ命の先で
今、私たちが生きているというのは
まるで奇跡のようです。

さて、神話の世界から遥か時が過ぎ、
現代ではすっかり文明が発展しました。

学問に芸術、インフラにインターネット。

人工知能や精密機器を作り上げる技術も発達しました。

ですが、人類の探求の歩みというのは
とても侮れるものではありません。

謎の古代遺産、オーパーツ

その時代に到底そぐわない
驚きの知識と技術が使われ、
時にはそれをどのように作ったのか
現代科学をもってしても解明できない
奇妙な工芸品が稀に発見されるのです。

紀元前1世紀。

古代ローマ時代の船と共に海底へと沈んだ
世界最古のコンピューターも、その一つ。

研究が進むにつれ謎が深まる
美しきオーパーツ、
アンティキティラ島の機械
については、
こちらの記事でご紹介していますので
気になる方はぜひチェックしてみてくださいね!

→ 『【前編】人類の叡智を超えた超古代文明のオーパーツ!アンティキティラ島の機械!

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