日本に眠る古代のミステリー!謎に包まれたオーパーツ5選!

オーパーツ。

その言葉が意味するは「場違いな工芸品」。

世界中から発見される、
その時代にはそぐわない高度な技術や
知識が用いられたそれらの出土品は、
ときに現代をも超越する古代文明の可能性を示唆します。

そんな摩訶不思議な出土品は
実は、私たちの住むこの日本からも見つかっているのです。

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、日本の古代ミステリー!
謎に包まれたオーパーツ5選
をご紹介します。

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聖徳太子の地球儀

未知の大陸が描かれていると伝わる
聖徳太子の地球儀”。

その名は、606年、
聖徳太子によって建立されたとされる
兵庫県太子町にある斑鳩寺に
所蔵されていたことから来ています。

ソフトボール程の大きさの地球儀には
ユーラシア大陸に加え、

1492年コロンブスが発見した
南北アメリカ大陸や、

1820年の南極大陸発見以前に
存在を囁かれていた未知の南方大陸・メガラニカ、

そして、遥か古代に栄華を極め、
天変地異により一夜で海に沈んだとされる
幻のムー大陸と思われるレリーフまでもが描かれています。

いずれも、聖徳太子が生きた当時には
まだ知られていない大陸ばかり。

地球が丸いことも、知られていない時代です。

この不思議な地球儀が
初めて歴史上に登場するのは、
1856年の寺宝目録。

『常什物帳』の中に
“地中石”という名で記録されています。

地球儀と思しき、奇妙なその物体。

その真相に迫るべく、研究者たちは
地球儀を詳細に調べ上げました。

すると、地球儀の材質は
石灰と海藻糊を混ぜた
漆喰でできていることが判明します。

日本において、漆喰に
海藻糊が使用されるようになったのは
江戸時代以降。

このことから、地球儀は
聖徳太子が生きた飛鳥時代より
遥か後の時代に作られた可能性が高い

と推測されました。

また、15世紀以降に発見された
アメリカ大陸や南極大陸が描かれていることに加え、

南半球部分には
かつて南方に存在すると信じられた
巨大な未知の大陸 “墨瓦臘泥加(メガラニカ)”の文字があり、

これに類似した文字が
1708年に出版された世界地図
「地球万国一覧之図」にも見られることから

聖徳太子の地球儀は、17~18世紀頃、
江戸時代に作られた可能性が高い
と考えられています。

与那国島の海底遺跡

日本の最西端に位置する
小さな島・与那国島。

その海底には
高さ約25m、幅約100mにも渡る
巨大な海底遺跡が眠っています。

柱の跡のような円形の穴や
巨大な階段のように広がる岩、
「水路」と呼ばれる
およそ10mにもなる直線の溝など・・・

自然が作ったとするには
あまりに不自然な地形が広がっているのです。

1986年の遺跡の発見は世界中を驚かせ、
大きな議論を巻き起こしました。

古代人が築き上げた文明の跡なのか?

はたまた、自然が偶然生み出した奇跡の産物なのか?

研究により導き出された
驚くべき海底遺跡の真相については、
こちらの記事で詳しくご紹介していますので、
気になる方はぜひご覧ください!

石の宝殿

兵庫県高砂市生石神社の裏手にそびえる
巨大な石造物、“石の宝殿”。

鎮の岩屋(しずのいわや)、
天の浮石(あめのうきいし)とも呼ばれ、

火山の噴出物が堆積してできた
凝灰岩を削って作られています。

その一切が謎に包まれていることから、
宮城県の“四口の神釜”、
宮崎県の“天の逆鉾”と並ぶ
日本三奇の一つに数えられる御神体です。

高さ約5.7m、幅6.4m、奥行7.2m、
重さは約500tにもなる巨大なその宝殿を
一体誰が、いつ、何のために作ったのでしょう。

生石神社には、石の宝殿にまつわる
このような伝説が残されています。

遥か昔の、神々の時代。

国づくりの神である大穴牟遅神、
またの名を大国主神は、
少名毘古那神とともに
出雲国から播磨国へとやってきました。

二柱は播磨の地を鎮めるため、
この地に石造の宮殿を建てようと
たった一夜で現在の石の宝殿の形にまで造り上げました。

ところが、その途中、
播磨に元々住んでいた神による反乱が起き、

騒ぎを鎮圧した頃には
すっかり夜が明けてしまっていたため、
宮殿を横倒しにしたまま、完成を諦めて
そこに籠ることにしました。

長い年月が過ぎ、
第十代 崇神天皇の時代。

世間で疫病が流行していたある日、
大穴牟遅神と少名毘古那神が崇神天皇の夢に現れ、

「吾(われ)らを祀れば平安が訪れる」

と告げました。

このことから、生石神社は創建され
二柱の鎮まる巨大な石造の建造物は
石の宝殿と呼ばれるようになったのでした。

宝殿は715年頃、
奈良時代初期に編纂された
日本最古の地誌『播磨国風土記』にも
記録があることから、
少なくとも1300年以上前から
存在していた
とされています。

神の成した所業か、古代の巨石文明か。

真相は謎に包まれています。

虚舟(うつろぶね)

日本各地に数多く伝わる奇妙な舟、
虚舟(うつろぶね)。

なかでも、1803年に
常陸国の海岸に現れたという伝説は、

のちに書かれた江戸時代後期の奇談録
『兎園小説』や『梅の塵』、
『漂流記集』の中に
共通して描かれています。

いずれも詳細は若干異なるものの、
伝承はこのようなものです。

1803年のある日、常陸国の漁師が
海に漂う一隻の奇妙な舟を発見しました。

舟の大きさは3~5mほどで
米を炊く深い鍋や香炉のような形をしており、

上部は赤く塗られ、
下部は真鍮色の板で覆われて、
まるで最高品質の鉄のようでした。

いくつかの窓には、
ガラスか水晶のようなものがはめられ
内部が完全に見えるほど
綺麗な透明をしていました。

不審に思った漁師たちが
舟を陸へと引き上げると、
内部には見たこともない文字が書かれているのが見え、

さらには中から見たこともないほど
高価な服に身を包んだ
若く美しい女性が現れたのです。

漁師たちは女性を内陸へと保護し、
事情を聞くも言葉が通じず、

また彼女が持っていた小さな箱は
決して誰にも触れさせませんでした。

途方に暮れた漁師たちは
女性を再び舟に乗せて海へと戻し、
やがて舟は波間へ消えていったといいます。

『兎園小説』では、
この女性の正体は外国の姫君であり、
結婚後、民との情事の醜聞があったため
舟に乗せられ流されたのだろうと記され、

また、謎の小さな箱には
死罪となった恋人の首が入っていたために
誰にも触れさせなかったのではないか、
と推察されています。

物は現存しませんが、当時の時代には
明らかに異質と見られる虚舟は
日本のオーパーツの一つと言われています。

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葦嶽山(あしたけやま)

広島県庄原市(しょうばら)に位置する
標高815mの葦嶽山

その名が広く世に知られるようになったのは、1934年のこと。

オカルティストの酒井勝軍氏が
葦嶽山を調査した際、

山の中腹から山頂にかけて
人の手によって作られたように見える
巨石群が存在すること、

また、どの方向から見ても
三角形に見えることなどから、

葦嶽山は世界最古の“日本のピラミッド”である

と発表したのです。

彼は、日本のピラミッドは
エジプトのような人工的な建造物ではなく
自然の地形を利用して造られたものであり

数千年という長い歳月をかけて
木々に覆われ、
自然の山のようになったのだ

と唱えました。

この主張が
全国の新聞に取り上げられると、

葦嶽山を一目見ようと
大勢の観光客が押し寄せることとなります。

実際のところ、
考古学的な裏付けはありません。

しかし、彼の発表より遥か昔から、
この地域には
このような言い伝えがあるのです。

「葦嶽山は初代神武天皇陵である」

そして、神武天皇が
九州から近畿地方にかけて
東方遠征を行った際、
葦嶽山に立ち寄ったという伝説も残っているのです。

謎多き、オーパーツの数々。

古代日本より伝わる様々な不思議は
ほかにも数多に残されています。

恐ろしげな妖気をその身に纏う
呪力を秘めし刀剣もその一つ。

日本の伝説に伝わる呪いの武具、
最強の特級呪具6選
については、
こちらの記事でご紹介していますので、
気になる方は、ぜひチェックしてみてくださいね!

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