日本史上最も美しいと謳われる!日本の三大美女!

日本三大美女

一人は麗しき絶世の女流歌人。
一人は千の美女より優る賢母。
一人は愛と悲劇を舞った白拍子。

その美しさは芯より溢れ、
時を超えてなお人を魅了する。

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、日本史上最も美しいと謳われる
日本三大美女
をご紹介します。

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小野小町(825年頃〜900年頃)

日本で知られる世界三大美女。

エジプトのクレオパトラ、中国の楊貴妃
その横に名を連ねる小野小町
平安の世に名を馳せた、美しき女流歌人です。

花の色は 移りにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに 〜

百人一首のこの歌に、
聞き覚えがある方も多いでしょう。

平安時代を代表する六人の歌人、
六歌仙の一人に数えられる小野小町。

彼女が日本の美の代名詞となった所以は、
天皇の命により作成された最古の和歌集
『古今和歌集』の編纂に関わった紀貫之が、
次のような言葉を残したためと言われます。

「小野小町は、
古の衣通姫の流なり。

あはれなるやうにて、つよからず。

いはば、よき女のなやめるところあるに似たり。

つよからぬは女の歌なればなり」

衣通姫(そとおりひめ)”とは、
『古事記』に登場する
和歌に優れた絶世の美女のこと。

その美しさに、衣に袖を通してなお
輝きが溢れていたと伝わります。

紀貫之の言葉の意味にはあらゆる解釈があり、

歌風の女性らしさについてを評している
とも考えられますが、

小野小町のその容姿こそ
衣通姫のごとき美しさである

という読み方が後の世で広まったのではないか
と言われています。

数多の伝承が残る小野小町は、
しかしその詳細な出自や生没年などが
未だはっきりしていません。

複数の資料から推測するに、825年頃に生まれ、
900年頃に亡くなったのではないかと考えられています。

彼女が生きた後の時代、
室町時代に成立した系図集
『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』によれば、

小野小町は、小野篁(802-853)の孫にあたるといいます。
(別の資料では、年代的に小野篁の娘ではないか、とする説もあります)

小野篁は平安初期の優秀な公卿で、
昼は朝廷で天皇に仕え、
夜は地獄で閻魔大王に仕えた
という伝説が残る人物。

特別に背が高く、性格は実直。

武芸のほか、和歌や漢詩、書においても
右に出る者がいないほどに優れていたといいます。

また、自ら望んで辞退したものの、
教養や身のこなし、
そして容姿端麗であることが求められる
遣唐使に選ばれたこともあり、

小野小町がその血を引いているというのなら
確かにと頷けるような共通点が見られるのです。

歌詠みの麗しき平安貴族。

篁の歌は小町と同様、百人一首にも収められ
現代にもなお親しまれています。

常盤御前(1138年〜不詳)

千人の美女から選び抜かれた
美しく聡い女性、常盤御前(ときわごぜん)

平民の出身でありながら
源義朝(よしとも)の側室となり、
のちに弁慶を打ち倒す戦の天才・
源義経(1159-1189)を産んだ人物です。

『平治物語』には、
このように記されています。

平安時代末期。

第76代近衛天皇の妻に
藤原呈子(ていし/しめこ)という女性が迎えられる際、

彼女の父・藤原伊通(これみち)の命令により
侍女を一般から募ることになりました。

集められたのは、
都で美人と言われる1000人の女性たち。

その中でも特別に美しく、聡明であるとして
選ばれたのが、常盤御前でした。

身分は、女官としては
最も低い雑仕女(ぞうしめ)でしたが、
世間では早くも常盤御前が最も美しいと噂が広まりました。

さて、そんな常盤御前に心惹かれた源義朝は
常盤御前を側室に迎え、
やがて三人の子を設けました。

今若、乙若、そして、後の義経・牛若。

<常盤御前>
今若=阿野全成
乙若=源義円
牛若=源義経

牛若が生まれた年の1160年。

平治の乱が勃発し、
義朝は平清盛との戦いに敗れたすえ、
逃げる最中、味方に裏切られ殺されてしまいます。

夫を亡くした常盤御前は、
処刑命令の下された幼い我が子たちを連れて
吹雪く真冬の寒空の下、
命からがら京都を逃げ出し、
叔父の元に身を隠しました。

しかし後日、
代わりに母が捕まったとの知らせが入ると、
腹を括り、平清盛の元に出頭するのです。

母の命をお許しください。

子供たちを殺すなら、
どうか私を先に殺してください。

そう懇願する常盤御前の強さと美しさに、
清盛は心打たれ、

源頼朝を処刑せず
島流しとする処分の決定も相まって、
命を許してやりました。

遺恨を残さないためには、
子供も皆等しく処刑するというのが
当たり前の考えであった当時、この待遇は異例でした。

常盤御前は清盛の愛人となり、女の子を出産。

その後しばらくして清盛は、
あなたは再婚すべきだといって
常盤御前を藤原家に託します。

そこで大蔵卿の地位を賜る
一条(藤原)長成という公家のもとに嫁ぎ、
二人の子を設けたのでした。

さて、物語では、時代に翻弄され
苦難の一生を遂げた女性として描かれる常盤御前。

しかし実際には、言われるほど
不幸な人生ではなかったのではないか
とも言われています。

最初の夫・源義朝は
平清盛に直接殺された訳ではなく、

また、三人の子供たちの命も救われたため
清盛自体を強く憎んではいなかった可能性があり、

さらには清盛との男女関係も
実際にあったかどうかは不明で、
どこまでが事実かわかっていないのです。

再婚後の家族構成については
複数の文書で確認が取れており、

一条長成は地位があり裕福であったため、
常盤御前は生涯不自由なく
過ごすことができたと言われています。

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静御前(生没年不詳)

常盤御前の息子・源義経の愛人。

静御前もまた、
絶世の美女と言われた女性の一人でした。

義経の武勇を記した軍事物語『義経記』には
このように記されています。

平安時代末期、
長く続く日照りに川の水も枯れ果て、
人々は大変苦しんでいました。

どうにか雨を降らせようと、後白河法皇は
京の神泉苑に各寺院の高僧を100人集め
お経を読ませましたが、なんの効果もありません。

それならばと、今度は
容姿端麗な白拍子(しらびょうし)を100人集めて
順番に舞をさせましたが、99人舞ったところで
やはり雨は降りません。

「残るあと一人も変わらぬ結果だろう。
もはや打つ手はないのか。」

落胆の声が上がる中、最後の一人が進み出て
悠然と歌い舞いました。

すると、たちまち空に暗雲が立ち込め、
三日に渡り雨が降り続いたのです。

後白河法皇は感嘆して言いました。

「静御前、そなたの舞は日本一だ」

そう、彼女こそ美しき白拍子、静御前。

のちに義経に見初められる女性です。

さて、義経には腹違いの兄がいました。

後に鎌倉幕府の初代将軍となる、源頼朝

鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によると、

頼朝と対立した義経は身を追われて京を落ち、
大物浜、現在の尼崎から九州へと向かう際、
静御前も同行したといいます。

ところが、義経の船団は嵐で遭難し、
岸へ戻されてしまうのです。

現在の奈良県、大和国にある
女人禁制の吉野山で義経と別れた静御前は、
京へ引き返そうとしますが、

その途中、従者に荷物を奪い去られ、
山の中を彷徨ううち、
山寺の僧侶に捕らえられてしまいます。

身柄は京の北条時政の元に引き渡され、
その後、彼の娘がいる鎌倉の地へと移されました。

娘・北条政子とその夫、
すなわち、敵対する義経の兄・頼朝の元へと。

1186年、静御前と対面した頼朝は
妻・政子の勧めで、日本一と称される舞を見せてみよと命じました。

静御前は再三断りますが、
ある時ついに受け入れ、

鶴岡八幡宮の舞台上、決死の覚悟で
愛する義経に向けた歌を唄うのです。

〜 吉野山 峰の白雪 ふみわけて
入りにし人の 跡ぞ恋しき 〜

(吉野山の白雪を踏んで 
遠く行ってしまった

あなたのことが恋しいのです)

〜しづやしづ しづのをだまき くり返し
昔を今に なすよしもがな〜

(しずの布を織る麻糸を繰り出すように
静、静とあなたが幾度も私を呼んだ

あの頃にもう一度戻れたなら)

命懸けの白拍子は、
見る者全てを圧倒するほどに
素晴らしい舞でした。

ただ一人、頼朝を除いては・・・

激怒する頼朝を宥めたのは、
妻の北条政子でした。

「私が同じ立場にあったなら、
私もまたあのように歌ったでしょう」

こうして命を救われた静御前でしたが、
実はこの時、お腹に義経の子を孕っていました。

頼朝は、生まれてきた子が女であれば許すが、
男であれば殺すようにと命じます。

かつて平清盛にその命を許され、
島流しとなった頼朝。

その情けが仇となり平氏は滅び、
源氏が再び栄えた以上、
見過ごすことはできなかったのです。

数ヶ月後、静御前が産んだのは、男の子でした。

静御前は泣き叫んで我が子を離そうとせず、
見かねた母親が子を取りあげ、
やがて赤子は由比ヶ浜の海に沈められました。

静御前は母と共に京に帰され、
心を痛めた政子は、せめてもと
たくさんの宝を持たせたといいます。

この3年後、義経は頼朝の圧力に屈し、
敵に包囲され自害。

静御前がその後どのように生きたのか、
記録には一切残っていません。

ところで、静御前を懸命に擁護した北条政子という女性。

優しさと聡明さは、
その言動の端々から見て取れることでしょう。

しかし彼女は、日本三大悪女の一人としても
名が知られているのです。

一体なぜ、そのような悪名を言われるようになったのか。

囁かれる噂と真相。

日本史上最恐と謳われる!
日本の三大悪女
については、
こちらの記事でご紹介していますので
気になる方は、ぜひご覧ください!

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