苗字でわかる祖先の身分!137家の大貴族と 名字成立の歴史!

突然ですが、あなたは自分の苗字が
どのような由来を持っているのか、ご存知ですか?

それは、脈々と続く先祖の記録。

一説に、10万〜20万もの種類が存在するという日本の名字。

歴史を辿れば、行き着く先は思いもよらない
偉大な人物に繋がっているかもしれません。

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、苗字でわかる祖先の身分!
137家の大貴族と苗字成立の歴史!をご紹介します。

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名前の歴史

氏・姓・名字の違い

「氏(うじ)」・「姓」・「名字」。

これらに違いを感じない今の時代ですが、
実は、明治維新以前までは
それぞれの意味は明確に区分されていました。

まずは苗字が成立した、その歴史を見ていきましょう。

古墳時代 / 氏姓制度

時は遡り、ヤマト王権が勢力を誇った古代日本。

この時代、朝廷は勢力を持つ一族、すなわち豪族らに
王権への貢献度や政治上の地位に応じた
氏(うじ)姓(かばね)を与えるという
氏姓制度をとっていました。

「氏(うじ)」とは、
力を持った血縁集団の家系を中心に、
血縁関係のある、あるいはない家々が
集まって構成される集団
のこと。

その名は地名や職掌から取られました。

そして、位や性格、体裁などを表す称号として
「姓(かばね)」が与えられたのです。

豪族らはその氏姓を、代々受け継いでいきました。

氏:蘇我氏、葛城氏、吉備氏、上毛野氏、物部氏、大伴氏、中臣氏など
姓:臣(オミ)、連(ムラジ)、造(ミヤツコ)等

飛鳥時代&奈良時代以前 / 同じ姓が増える

しかし、時代が進むにつれ
「氏」や「姓」は
正しく機能しなくなっていきます。

功績を挙げた氏族に
天皇から「姓」を与え続けるうち、
同じ姓が急増したのです。

平安時代初期 / 同じ氏が増える

さらに、平安時代に入る頃には

代表的な4つの氏族、
源氏・平氏・藤原氏・橘氏(源平藤橘)
絶大な権力を誇ったことで、同じ氏まで増え、

もはや氏と姓による区別が困難となってしまいます。

平安時代後期 / 名字が公卿の間で広まる

こうした状況の中、平安時代後期頃。

朝廷に使える公家のうち
国政を担う最高職、太政官(だいじょうかん)の
中でもさらに最高幹部にあたる“公卿”の間で、
名字」が広まりました。

「名字」とは
中国大陸、あるいはその影響を受けた
朝鮮半島から伝来した「字(あざな)」の一種
で、
元来、「名字(なあざな)」と呼ばれていました。

公卿らは、自分の邸宅のある地名などを名字とすることで
自らを示す称号としたのです。

平安時代以降 / 公家・武家の間で発展

それ以降、名字は公卿の中だけにとどまらず、
公家や武家の間でも普及します。

武家が政権を握った鎌倉時代。


名字を持つことは当初、権力者の特権でしたが、

そのうち武士が自分の名字を農民らに与えるなどして
室町時代に入る頃には、農民間にも広まりました。

ところが、戦国時代から江戸時代初期にかけ、
武士と農民との身分を明確に分ける動きが加速(兵農分離)。

名字は再び、特権階級のものとして
扱われるようになるのです。

江戸時代 / 苗字帯刀

さて、江戸時代。

名字の資格は帯刀とともに、武士の特権でしたが、
やがて有力者や大商人など、一部庶民にも持つことを許す
苗字帯刀”などが始まります。

とはいえ、その他の大勢は
それぞれ非公式に持つ名字を、公の場で名乗ることを禁じられました。

明治時代 / 明治新政府による名字の義務化

260年余り続いた江戸時代が終わり、
明治に入った1870年。

明治政府は身分標識機能の破棄を目的に、
一般庶民が名字を名乗ることを自由化しました。

しかし、庶民たちにとっては
名字が必要不可欠というわけではなかったため、
名乗る者、名乗らない者が混在するようになります。

これを整え、戸籍制度を確立すべく
1875年2月13日、政府は平民苗字必称義務令を公布し、
国民はみな公的に名字を持つこととなったのです。

このようにして氏名を持つようになった、私たち日本人。

今では名字のその種類、10万〜20万種も存在すると言われ、
世界的に見ても非常に多いといいます。

これは、日本では古く「家」を意識していたことに加え、

名字が義務付けられた際に
新たな名字を自由に名乗った国民が多くいたためだと言われています。

※実際、幕末期と明治期を比べると、一気に数倍も名字が増えたという。

明治以前の大貴族!

さてそれでは、あなたの名字は
一体どんな歴史を辿って、今日に至るのでしょう?

明治以前、
元々名字を名乗っていた位の高い家柄(公家武家)、

なかでも朝廷に支えていた貴族(公卿)たちの名字が
もしかしたら、あなたにとって身近な名前かもしれません。

堂上家と地下家

平安時代から江戸時代にかけて
天皇や朝廷に支えた貴族集団・公家。

時代とともに世襲の傾向が強まると、公家の中でも
その身分が明確に分けられるようになりました。

天皇が過ごす清涼殿の殿上間に昇ることを許された
上級貴族・堂上家(どうじょうけ・とうしょうけ)。

そしてそれを許されない中級下級貴族・地下家(じげけ)。

堂上家は、
朝廷の最高機関・太政官(現代でいう内閣府)の最高幹部、
公卿になれる家柄です。

堂上家は大きく六つの家格に分かれ、
家柄によってなれる役職が決まっていました。

時代の移り変わりの中で
政治に関わる機会が減った時期もあるものの、

その権威は代々受け継がれ、江戸時代末期には
実に137家もの堂上家が存在していました。

堂上家137家の名字

それらの名字は、江戸時代に作られた皇族や公家の名鑑
雲上名鑑(うんじょうめいかん)』に記録されています。

これよりご紹介するのは、由緒ある名家の名字。

格式高い堂上家、その系譜の中に、見知った名はあるでしょうか。

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摂家 / 摂関家

近衛(このえ)・九条(くじょう)・
二条(にじょう)・一条(いちじょう)・鷹司(たかつかさ)

※雲上名鑑の記載順

まずは最も身分の高い家格、摂家(せっけ)。

近衛(このえ)・九条(くじょう)・
二条(にじょう)・一条(いちじょう)・鷹司(たかつかさ)。

これらは五摂家とも呼ばれ、公家の最上位の職、
<摂政・関白・太政大臣など>になれる家柄です。

摂政とは、天皇が幼いときや女帝の時代に、
天皇に代わって政治を行う役職。

関白とは、天皇の成人後、
天皇を補佐して政治を行う役職のことを指します。

太政大臣は、太政官の長官、すなわち最高職に当たり、
具体的な職務のない名誉職とされていました。<位階:一位>

摂政:天皇が幼いときや女帝の際に、天皇に代わって政治を行う 関白:天皇の成人後に、天皇を補佐して政治を行う 太政大臣:太政官の長官(最高職)。具体的な職務はない名誉職 左大臣:太政大臣に次ぐ役職。事実上の太政官の最高長官 右大臣:左大臣に次ぐ役職。事実上の太政官の最高長官 内大臣:左右大臣に次ぐ役職。左右大臣が欠員の際に代理で政務を行う 大納言:太政官の次官。(現代の国務大臣に相当) 中納言:大納言の補佐。 参議:大中納言に次ぐ役職。

明治に入り、庶民が名字を持つことを義務化された時も
五摂家の名字はとても恐れ多くて、
届け出ることはできなかったと言われています。

清華家

久我(こが)・三条(さんじょう)・西園寺(さいおんじ)・ 徳大寺(とくだいじ)・花山院(かざんいん/かざのいん)・ 大炊御門(おおいのみかど)・菊亭(きくてい) 広幡(ひろはた)・醍醐(だいご)

最上位の摂家に次ぐ家格、清華家(せいがけ)。

久我(こが)・三条(さんじょう)・西園寺(さいおんじ)・
徳大寺(とくだいじ)・花山院(かざんいん/かざのいん)・
大炊御門(おおいのみかど)・菊亭(きくてい)・
広幡(ひろはた)・醍醐(だいご)。

これら九つの家は
太政大臣などになることを許された家柄でしたが、

実際のところは五摂家が独占していたため、
太政大臣に次ぐ左大臣が、事実上の最上位の官職であり、

それでも老齢の当主が名誉的に任じられるなど
たった10ほどの事例しかありませんでした。

大臣家

中院(なかのいん)・正親町三条(おおぎまちさんじょう)・ 三条西(さんじょうにし)※西三条とも

摂家、清華家に次ぐ家格、大臣家(だいじんけ)。

中院(なかのいん)・正親町三条(おおぎまちさんじょう)・
三条西(西三条)。

太政大臣にまでなれる資格のある家柄ですが、

実際のところは、清華家の昇進に準じて昇進し、
欠員が出た際に大臣になれた位であり、

歴史的に見ても、
右大臣になった例は極めて稀で、
左・右大臣に次ぐ内大臣を超えて昇進する事例は
少なかったといいます。

羽林家

正親町・滋野井・姉小路・清水谷(一条)・室町(四辻)・小倉・ 河鰭・阿野・橋本・花園・裏辻・梅園・山本・大宮・武者小路・ 風早・押小路家・高松(西郊)・園池・藪(高倉)・西四辻・中園・高丘・ 中山・飛鳥井・難波・野宮・今城(中山冷泉) 松木(中御門)・持明院・園・ 東園・壬生(葉川)・高野・石野・石山・六角家 冷泉(上冷泉)・冷泉(下冷泉)・藤谷・入江 四条・山科・鷲尾・油小路・櫛笥・西大路・八条・ 水無瀬・七条・町尻・桜井・山井・ 樋口・堀河 六条・久世・岩倉・千種・梅溪・愛宕・東久世・植松 庭田・綾小路・大原

大臣家に次ぐ家格、羽林家(うりんけ)。

66家の家々が連なります。

堂上家の中で最も家の数が多く、
武官職を経て参議から中納言、
大納言にまで昇進できる家柄です。

出世のスピードや経路は、
個々の家の立場などによって異なり、
ごく稀に内大臣にまで昇進した例もありました。

名家

<日野家>
日野・広橋・烏丸・柳原・竹屋・日野西・
勘解由小路・裏松・三室戸・外山・豊岡・北小路

<勧修寺家>
甘露寺(吉田)・葉室・勧修寺・万里小路・清閑寺・中御門・
坊城・芝山・池尻・梅小路・岡崎・穂波・堤(中川)

<平家>
平松・長谷・交野

羽林家と同列の家格、名家(めいけ/めいか)。

28家の家々が連なります。

羽林家と同様、大納言まで昇進できる家柄ですが、
異なるのは、その昇進の過程。

羽林家は武官職、
名家は侍従や弁官などの文官職を経るという点です。

特別な例としては、
日本三大悪女の一人、日野富子を輩出した日野家には
左大臣にまで昇進した者がいたり、

他にも、烏丸家、万里小路(までのこうじ)家、
清閑寺(せいかんじ)家からは
内大臣に昇進した者もいたりします。

家柄を知れば、また別の一面が見えてくる。

日本の三大悪女の噂と真相については
こちらの記事でご紹介していますので、ぜひご覧ください。

半家

高倉・富小路 五辻・慈光寺 白川 竹内 高辻・五条・東坊城・唐橋・清岡・桒原(桑原) 西洞院・石井 舟橋・伏原・澤 土御門・倉橋 藤波 吉田・萩原・錦織・藤井 錦小路 北小路

羽林家と名家に次ぐ家格、半家(はんけ)。

26家の家々が連なります。

堂上家の中では最も低い家格で、
羽林家や名家の昇進に準じて昇進しました。

最高官位は、大納言。

和歌や弓箭(きゅうせん)、神楽、文学、
儒学、陰陽道、医道など、
様々な特殊技術をもって朝廷に仕えました。

以上、堂上137家。

最高位の系譜に、あなたの知る名字はありましたか?

明治時代、彼ら公卿たちは
1869年の版籍奉還により“公卿”改め、
清華家の華の文字を取った“華族”と呼ばれるようになりました。

そして、1884年の華族令で、その家格により
公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵と爵位を授かり、

1947年に華族制度が廃止されるまでの
78年間、存続したのでした。

さて、こうして環境が変わってゆく中、
下級の華族たちは次第に生活に困り始め
家に伝わる宝物を売りに出して暮らすようになります。

現在、私たちが博物館などで見ることのできる
価値ある品々は、
かつて華族が手放したものであることが多いのです。

競売に出された、華族の家宝の数々。

その中に、1919年、かの素晴らしい日本刀も発見されたのです。

数珠丸恒次

日本の誇る、最高峰の名刀です。

伝説の日本刀!脈々と受け継がれる”天下五剣“については
こちらの記事でご紹介していますので
気になる方は、ぜひチェックしてみてくださいね!

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