剣術流派の始祖!日本の大剣豪5選!

その数、数百種。

記録に残っていないものも含めれば
星の数ほど存在したとされる、剣術の流派

様々に枝分かれしたそれらのもとを辿ると、

やがては室町時代ごろに生まれた
「剣術の源流」と呼ばれる、
いくつかの流儀に行き着きます。

日本刀が武士の主な武器として
扱われるようになり出した時代、
出揃った5人の猛き剣豪たち。

日本を代表する流儀を興し
剣の礎を築いた彼らの、辿り着いた境地とは・・・

こんにちは。えむちゃんです。

今回は、剣術の祖!日本の大剣豪5選!をご紹介します。

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念阿弥慈恩(1350年-没年不詳)/ 念流の始祖

日本の剣術の源流、
兵法三大源流の一つ。

念流」の始祖、念阿弥慈恩(ねんあみじおん)。

時は南北朝時代、
奥州相馬、現在の福島県南相馬市。

父は武将・新田義貞に仕える
相馬四郎左衛門尉忠重。

5歳の時に死別した父の仇を取らんと、
慈恩は剣術の世界に足を踏み入れるのです。

10歳で上京し、
京都・鞍馬山で鍛錬を重ねていたある日、

慈恩は奇妙な人物に出会い、
薙刀・槍・剣・杖などあらゆる武術を学びます。

16歳の時に鎌倉の寿福寺に赴くと
僧から秘伝の剣術を授かり、

18歳で筑紫、すなわち九州の安楽寺にて
剣の奥義を会得。

こうして全国の達人を訪ねては
剣の修行に励みました。

心身ともに成熟した慈恩は
奥州に帰ると、父の仇討ちを果たします。

その後は禅門に入り、諸国を巡っては
自らの剣法を教え広めました。

最も古い流儀の一つ、「念流」。

その意味を「一念を太刀先に籠めて敵を追い詰める」こと。

右手を斬られたら左手で、
両手が斬られたらかぶりついてでも、一念を徹す。
(『撃剣叢談』)

鋭い突きが特徴で、念流の修行を積む者は
太刀の先に米1俵、およそ60kgの重さの俵を吊るしたり、

あるいは、そこにはしごを掛けて人を登らせたりしても
太刀を構えることができたといいます。

晩年、慈恩は念大和尚と名乗り、
56歳でこの世を去りました。

生涯を通して数多く輩出した優秀な門弟たち、

なかでも特に優れた14人の門弟は
十四哲」と称され(関東に8人・京都に6人)、
そこから様々な流派が広がってゆくこととなります。

600年以上経った現在に至るまで
樋口家で受け継がれる自衛の剣、
馬庭念流(まにわねんりゅう)」。

兵法四大源流とした場合に数えられる
中条流」。

一説に、佐々木小次郎が創始した「巖流」も
流れを辿れば念流に行き着くとされます。

飯篠長威斎家直(1387年-1488年5月26日)/ 天真正伝香取神道流の創始者

兵法三大源流の一つ。

天真正伝香取神道流」の始祖、
飯篠長威斎家直(いいざさちょういさい・いえなお)。

1387年、下総国の香取郡、現在の千葉県多古町で
郷士の家に生まれた家直は、
幼い頃より武術に優れ、あらゆる武芸に触れて育ちました。

やがて第8代征夷大将軍足利義政や、

第50代桓武天皇の血を引く名門・
千葉氏の宗家に仕えることとなり、
その名は瞬く間に広まります。

室町時代中期にあたる1455年、
家直の人生を大きく変える、享徳の乱が勃発。

千葉氏は内部分裂を起こし、主君は裏切りを受けて自害。

武士としての生き方に虚しさを覚えた家直は
剣の修行に打ち込むようになりました。

経津主神を祀る、香取神宮の奥の宮に近い
梅木山不断所に籠ること、千日千夜。

およそ三年にも渡る修行の末に、家直は悟りを得ました。

「兵法とは平和の法なり。
敵に勝つ者を上とし、敵を討つ者はこれに次ぐ。」

このとき、経津主神より
汝、のちに天下剣客の師とならん」という掲示を受け、
一巻の神書を受け取ったといいます。

こうして生み出したのが「天真正伝香取神道流」。

日本武道の源流とも言われるのは、

古くから香取神宮鹿島神宮
神職に伝承されていた剣術をもとに

これまで決まった「型」のなかった日本武道を
家直が体系化したためです。

剣術、居合術、棒術、槍術、薙刀術、手裏剣術、柔術。

さらには忍術や風水、築城法。

一撃必殺の技術を磨き、
相手から来る攻撃より早く技を繰り出す。

ただし、戦うことを戒め
戦わずして勝つこと」を最上とする。

600年経った現在にも、
その流儀は受け継がれています。

のちに家直は香取神宮近くに道場を開き、
多くの門弟を育て、
1488年、102歳で逝去しました。

家直の門流には、後にご紹介する
新陰流の上泉伊勢守信綱や、鹿島の塚原土佐守安幹
そして、その養子・塚原卜伝など、
名だたる剣豪たちが連なります。

戦乱の世で、刀傷ひとつなく生涯無敗を誇った剣士、
塚原卜伝の逸話については、
実在した世界最強の戦士5選の記事でご紹介していますので
気になる方はぜひご覧ください。

愛洲移香斎久忠(1452年-1538年)/ 陰流の始祖

兵法三大源流の一つ。

陰流」の始祖、
愛洲移香斎久忠(あいす いこうさい ひさただ)。

1452年、伊勢の地に生まれた久忠は
幼少の頃より才能のあった剣術を極めるため、
武者修行に奔走し、

やがて日向国、現在の宮崎県に移り住みました。

やがて36歳になると、
日向国の鵜戸窟(現・宮崎県日南市鵜戸村)、
海岸の荒波寄せる、およそ千平方メートルにも及ぶ
岩の洞窟内に籠もり、そこで剣の奥義を悟ります。

岩屋の天井から降りてきた蜘蛛を払おうとしたところ、
いくらやっても蜘蛛は手足をするりとかわし、
その動きを追ううちに、流儀・陰流を見出したのです。

相手の動きを読むこと。
それは、表には見えない心の動き、
すなわち「陰」の流れを見定めること。

教えを授けた蜘蛛は、神の化身であったと伝わります。

久忠は陰流を天下に広めるべく、諸国を巡りました。

一説には、中国、明にまで渡航したともいわれ、
晩年は地元で天寿を全うし
1538年、87歳で亡くなりました。

さて、そんな「陰流」は
その後ある人物が継承したことで
日本の剣術を代表する、新たな流派を生み出します。

上泉伊勢守信綱(1508年-1577年頃)/ 新陰流の祖

陰流を受け継ぐ「剣聖」。

新陰流」の流祖、
上泉伊勢守信綱(かみいずみ いせのかみ のぶつな)。

1508年、上野国、現在の群馬県。

大胡城(おおごじょう)の支城・上泉城。

藤原秀郷を祖先に持つ大胡氏の一族、
上泉氏に生まれたと言われる信綱は、

後に箕輪城の長野氏に仕えるも
武田信玄に攻め入られて滅亡し、
戦国武将の道が断たれてしまいます。

そこで、当時考案した流儀・新陰流を
広める旅に出るのです。

先にご紹介した兵法三大源流を含むあらゆる剣術、
中でも特に「陰流」を発展させ生み出した「新陰流」。

その心得は、
刀身一致、心身一如で刀を振る「性自然」。

何にも固執することなく柔軟に、
相手の動きを引き出し斬る「転(まろばし)」。

そして何より技より先に、礼や仁義、人の心を磨くこと。

上泉兵法、古今比類なし、天下一と言うべし

とは、第13代征夷大将軍・足利義輝が
新陰流を絶賛した言葉として伝えられています。

信綱は多くの門弟を抱え、その中には
刀を持たずして相手を抑える“無刀取り”で有名な
柳生新陰流」を興した柳生石舟斎宗厳や、

足利義輝の前での演武で信綱の打太刀を務め、
後に構えと袈裟斬りを特徴とする
タイ捨流」を興した、丸目長恵(まるめながよし)。

他にも数多くの流派の祖を輩出しました。

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鬼一法眼 / 京八流の祖

さて、これまでにご紹介した
剣術が生まれるよりもさらに昔、

平安時代後期に成立したとされる剣法があります。

剣豪、鬼一法眼が生み出した
京八流(きょうはちりゅう)。

鬼一法眼が京都、鞍馬山で八人の僧侶に教え伝え、
数多の剣術の源流となったと言われる流儀です。

かの源義経が
幼少期に鞍馬寺で学んだとされる剣術も、

冒頭にご紹介の念流を開いた念阿弥慈恩が
鞍馬山で奇妙な人物に出会い学んだという武術も、

あらゆる流儀が、本来は
京八流の流れではないかと考えられていますが、

いずれも文献が消失しており、
確かめようがないのが実態です。

剣術の神”と呼ばれる鬼一法眼は、
兵法家であるとともに
伝説的な陰陽師としての顔も持っています。

古い文献に記された、
超人的な逸話の数々。

かつて日本に君臨した最強の陰陽師6選については、
こちらの記事でご紹介していますので
気になる方は、ぜひチェックしてみてくださいね!

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